%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2017_01_03_12_09 西南戦争で亡くなった西郷隆盛は、若い頃から多くの若手藩士から慕われていました。その中で特に有名なのが、今回ご紹介する村田新八です。

岩倉使節団の一員として洋行に参加し、大久保利通からも多大な信頼を寄せられていた村田新八とはどのような人物だったのでしょうか。

西郷隆盛との関係や、西南戦争における動向も含めてご紹介します。

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村田新八とはどのような人物だったのか?


まずは村田新八がどのような人物だったのか、簡単にご紹介します。

村田新八は1836年11月3日、薩摩藩士である高橋八郎の第三子として生まれました。1861年になると同じ薩摩藩士である村田十蔵の長女、清と結婚し、以後村田姓を名乗る事になりました。

新八は幼少期から、家が近所だった西郷隆盛を尊敬していたと言われています。幕末期には西郷の懐刀として薩長同盟や戊辰戦争、江戸城無血開城などに奔走した他、西郷が島津久光の怒りに触れて島流しにあった時には、西郷と共に流罪になっている程です。

明治新政府では、1871年に西郷の推挙によって宮内大丞に任命されています。また大久保利通らと共に岩倉使節団の一員として欧米視察に出向いた事もありました。この使節団の薩摩藩出身者は、実は大久保と村田の二人だけ。大久保は村田のことを高く評価しており、将来自分の片腕になる人物だと期待していました。

米国に到着した後、団員たちが洋服を新調して体裁を繕うのに対し、新八は日本で作った服のままで「外見より中身が大事だ」と豪語していたそうです。帰国後鹿児島に下野したときも、薩摩の若者が精神的に西郷に依存しすぎで自立出来ていないと嘆いたという逸話も残されています。

また、新八はパリでは燕尾服を新調し、オペラ座によく通っていたという逸話が残っています。武骨な薩摩武士としては珍しく音楽や美術を好み、持ち帰ったアコーディオンは日本でも手放さなかったと言われています。

こうした洋行から帰国後、新政府で何が出来るのか。新八には様々な期待や展望があった事でしょう。しかし兄貴分と慕う西郷が明治政府を辞職した事で、新八の運命も変わっていきます。鹿児島へ戻った西郷に会うために帰郷した新八はそのまま彼に元に留まる事となります。やがて西南戦争へ突入し、42歳でその生涯を閉じる事となりました。

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村田新八と西郷隆盛の関係はどのようなものだったのか?


それでは、村田新八と西郷隆盛はどのような間柄の関係だったのでしょうか。
もう少し詳しく見ていきましょう。

村田新八は幼い頃から、8つ年上の西郷隆盛を兄貴分と思っていたようです。西郷らが結成した精忠組にもその名前が見える他、1862年に有馬新七らが寺田屋騒動を起こした時、島津久光からその背後に居たのではないかと疑われ、西郷と共に島流し(村田は喜界島、西郷は沖永良部島)の処分を受けています。ちなみに、新八が喜界島での生活を記した「宇留満乃日記」は現存しており、当時の新八の様子を知る事ができます。

その2年後の1864年に赦された西郷は、喜界島に立ち寄って新八と共に鹿児島へ帰る事となりました。1866年の薩長同盟締結時には、新八は西郷と共に伏見で出迎えを行っており、鳥羽伏見の戦いでも新八は西郷の元で働いています。西郷が勝海舟と会談をする際にも新八はこの護衛に当たりました。西郷の傍らには、常に新八が居たといっても過言ではないでしょう。

新政府では大久保利通と共に岩倉使節団に参加する事となった新八。同じ頃、長男の岩熊も開拓使留学生としてアメリカに渡りました。しかしこの間に、征韓論の政争に敗れた西郷は下野してしまいます。日本に帰国してから後の新八は「大久保さんの考えは良くわかっているから、西郷さんの考えを聞いてみたい」と帰郷。
その後「西郷さんと自分との今までの関係を考えると、東京に戻ることはできない」という手紙を東京に出します。新八が帰ってこないと知り大久保はとてもショックを受けたそうです。

西南戦争勃発前、新八は「西郷先生を帝国宰相にしたい」と語っていた事から、彼を議会政治に担ごうという期待があったのかもしれません。一方の西郷も軍議では「新八はおらんのか」と真っ先に聞くほど彼を信頼していました。

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村田新八は西南戦争でどのような働きをしていたのか?


最後に、西南戦争における村田新八の動向について詳しく見ていきましょう。

薩軍の出兵が決まった時の軍議で、新八は発言をせず黙っていたと言われています。政府軍と闘っても負けると察していたのかもしれませんね。しかし西南戦争が始まると、新八は二番大隊指揮長として活躍、熊本城攻撃では背面軍を指揮しました。

3月下旬の田原坂の敗戦後、新八は本営詰めになり西郷らと人吉に退却。西南戦争の節目の一つと評される6月の人吉の戦いを指揮しますが、大敗します。最後の大きな戦いとなった8月の和田峠の戦いでは西郷らと陣頭に立ちますが再び大敗。翌日解軍の令を出し、西郷は残留した精鋭兵らとともに鹿児島へと退却、城山の決戦が近づいてきます。

この時、薩軍の中にはせめて西郷だけでも助けたいという声が上がります。しかし新八は「この段階ではもう不可能だ」と答えたと言われています。そして9月24日、城山の決戦で負傷した西郷の最後を見届けた新八は政府軍に突撃し戦死しました。

ちなみに新八は、西南戦争中でもシルクハット&フロックコート姿で戦い、アコーディオンを弾いていたと言われています。一方で長男、岩熊に対しては「陣頭に立って奮戦せよ」と言葉を授け、岩熊は父の支持に従って新八より先に戦死しています。また、新八の死を聞いた勝海舟は「大久保に次ぐ素晴らしい人物だった」と評し、その死を惜しみました。

※参照:勝海舟の父親・勝小吉ってどんな人?子供や子孫も気になる!

この記事のまとめ


このページでは村田新八がどのような人物だったのか、西郷隆盛との関係や西南戦争における動向も含めてご紹介しました。

岩倉使節団で大久保利通とともに欧米に渡ったものの、最終的には西南戦争で西郷に殉じた新八。使節団の公式記録を編纂した久米邦武はその回顧録の中で、村田新八のことを寡黙ながらも『頑固党の棟梁株』で『わるもの』だと親しみをこめて語っています。近代化の波に乗り遅れた訳ではなく、大久保からも多大な信頼を寄せられていた新八。もしも彼が生きていたらと考えると、その最後が惜しまれてなりません。

なお、以下の記事では村田新八を含めた西南戦争の中心人物などを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:西南戦争を簡単に解説。中心人物や行われた場所は?