%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_23_20_53 池波正太郎の『人斬り半次郎』を読んだことはありますか?幕末の京都を震え上がらせた四大人斬りの一人、薩摩藩の桐野利秋(中村半次郎)を主人公にした作品です。

小説は登場人物を有名にしてくれる反面、虚像が独り歩きするマイナス面もありますが、この桐野利秋は一体どのような人物だったのでしょう。

薩摩藩のキーパーソン西郷隆盛との関係や、彼の妻、子供についても合わせてご紹介します。

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桐野利秋とはどんな人物だったのか?


桐野利秋(中村半次郎)は1838年、中村与右衛門(桐野兼秋)という薩摩藩の下士の次男として生まれました。少年時代の桐野は、10歳の頃、父親が流刑に処せられ家禄も召し上げられ、その8年後には兄も病死するといった苦労を経験しています。やがて桐野は家の家督を継ぎ、農作業をして家族を養いながら剣術修行に励んだと言われています。

その後、西郷隆盛に出会って深く彼に傾倒し、彼の右腕となって尊皇攘夷活動を行います。藩内では長州寄りの考えを持っていた桐野利秋は1864年の池田屋事件後、長州藩と薩摩藩の和解を図りますが、失敗し禁門の変は起きます。

戊辰戦争では上野の彰義隊との戦いで功を挙げ、維新後は陸軍少将になり、熊本鎮台の司令長官や陸軍裁判所の所長などを歴任します。しかし明治6(1873)年、征韓論で西郷隆盛が政戦に敗れると、桐野も西郷の後を追って下野し、私学校を設立し教育業に専念します。そして1877年、西南戦争が勃発すると薩軍の司令官の1人として奮戦しますが敗北。城山籠城戦にて満38歳で戦死しました。

また、桐野利秋と言えば「人斬り半次郎」の異名から殺し屋のイメージを連想しがちですが、彼が実際に殺したと確認できているのは、幕府の密偵と思われていた赤松小三郎という公武合体派の軍学者と、戊辰戦争中に返り討ちにした刺客の2名だけだったと言われています。

桐野の人物像ですが、彼を知る人らは「男らしく豪放で快闊」「上下貴賤を問わず気さく、敵に対しては鬼にもなったが、一方で慈悲の心もあった」という評価が残されています。またお洒落な一面もあり、西南戦争で戦死した後の遺体からは、陸軍少将時代に愛好していたフランスの香水の残り香がしたと言われています。

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桐野利秋と西郷隆盛の関係はどのような間柄だったのか?


ここではもう少し詳しく、桐野利秋と西郷隆盛の関係を説明したいと思います。

桐野利秋と西郷隆盛が知り合ったのは文久2年(1862)の事だったと言われています。薩摩藩の最高権力者、島津久光の上京に随行した桐野は、この時薩摩藩の家老を努めていた小松帯刀に引き立てられ、やがて西郷と知り合う事となります。

この頃から、桐野は西郷隆盛の耳目として諜報活動に身を投じ、やがて武力倒幕の相談をされるまでの信頼を獲得します。その後、西郷が勝海舟と江戸城の無血開城に向けた談判の際には村田新八と共に西郷に随行していた事からも、桐野が西郷から絶大な信頼を寄せられていた事が分かります。ちなみに西郷は桐野のことを「若い時に学問をする機会があったら、自分などは足元にも及ばなかっただろう」と評価していたそうです。

維新後の桐野は、西郷隆盛が廃藩置県の際に上京した時もこれに従っています。しかし明治6年、西郷が下野した際は一緒に後を追って辞職。そして1877年に私学校の生徒が暴走すると、「こうなっては戦うしかない」と桐野利秋は主張し、西郷隆盛もそれに対し「自分の命を皆に預けよう」と応えました。

西南戦争において、桐野は4番隊の隊長と物資の調達を担当しますが、戦いが続くうちに西郷は桐野と距離を置くようになったと言われています。敗戦が濃厚となると「西郷だけでも助けよう」という意見が出されますが、桐野は「潔く散る(死ぬ)べきだ」と主張します。そして西郷隆盛は城山の戦いで、桐野のいとこにあたる別府晋介に介錯され死を迎えます。そして同日、最前線で闘っていた桐野利秋も額に銃弾を受け戦死したのでした。

※参照:西郷隆盛が幕末や明治時代にしたことは?その業績を解説!

桐野利秋に妻や子供はいたの?京都時代の恋人とは?


話は変わりますが、桐野利秋には妻や子供はいたのでしょうか。

桐野利秋の妻は、帖佐小右衛門という薩摩藩の士族の次女であるヒサという女性です。この二人の間には子供は出来なかったので、桐野の死後はヒサが桐野家の家督を継ぐ事になりました。そして明治18年、利秋の弟の長男である山ノ内栄熊が養子となり、桐野利義と改名する形で桐野家を相続しています。

その一方で、この桐野利義の子供である桐野富美子はインタビューの中で、山ノ内栄熊(桐野利義)が桐野利秋の実子である事を、義理の祖母にあたるヒサから聞いた経験を語っています。
また1885年には、鹿児島出身の桐野利春という人物が屯田兵として北海道に赴いた事が明らかになっているのですが、この人物が桐野利秋の子供、少なくとも遠縁であった可能性も残されています。

これ以外には、桐野は幕末に西郷の耳目として京都に住んでいた時期、村田さとという恋人がいた事でも知られています。この村田さとは明治時代になって、かつての恋人に会いに鹿児島まで行った所、桐野に妻がいた事を知って落ち込んで帰ったのだとか。その後、村田さとは同志社大学の設立者である新島襄に出会い、洗礼を受けてクリスチャンになったと言われています。さとは1921年まで生き延び、その墓は桐野夫妻の墓所の近くに安置されています。

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この記事のまとめ


このページでは桐野利秋とはどのような人物だったのかを、西郷隆盛との関係や妻や子供の有無も含めてご紹介しました。

『人斬り半次郎』というフレーズや恋人であった村田さととの逸話、そして西郷との関係など、桐野利秋という人物は語るべきポイントが沢山ある魅力的な人物ですね。また、桐野は西南戦争によって賊扱われていましたが、1916年に正五位を贈られる形で名誉回復が行われています。

なお、以下の記事では西南戦争を中心人物や場所を含めて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:西南戦争を簡単に解説。中心人物や行われた場所は?