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国語の教科書では、俳句や短歌では必ず名前が出てくる正岡子規。彼は歌人、俳人としてだけでなく、国語研究家として日本語の近代化にも尽力した人です。明治文壇に大きな影響を与えながらも若くしてなくなった正岡子規とは、どんな人だったのでしょう。

年表で子規の人生を簡単に説明すると同時に、同世代の著名な作家、夏目漱石との関係についてもご紹介します。
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正岡子規ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは正岡子規はどんな人だったのかを、わかりやすくご紹介します。

子規は1867年に、松山藩(今の愛媛県)の下級藩士の長男として生まれます。子供の頃から身体が弱く、性格も内向的でいじめられっ子だったと言われています。また、司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」の主人公になった秋山真之とは、中学の同級生であり親友と言える間柄でした。

子規は4歳の頃、父親がなくなったため正岡家の家督を継ぐ事になります。その後は母方の祖父で、藩の儒者であった大原観山の影響を受けながら育ちました。少年時代には漢詩や小説に親しみ、友人と雑誌まで制作するようになります。また、松山は俳句が盛んな地だった事もあり、河東碧梧桐、高浜虚子、寒川鼠骨といった同世代の著名な俳人とは、この時期から親交がありました。

また文学の他にも、自由民権運動の影響を受け政治にも関心を持ち、やがて政治家になりたいと子規は16歳のとき上京します。その後は東大予備門に入学し、親友となる夏目漱石と知り合います。またこの頃から野球をはじめていて、22歳で吐血するまでキャッチャーとして活躍していたと言われています。余談ですが、「子規」という俳号はホトトギスのことで、「血を吐くまで泣き続ける」と言われたことに自分をなぞらえたようです。
(本名は升(のぼる)という名前でした)

その後、子規は大学を中退し、『日本』という新聞や、その姉妹紙である『小日本』などで俳句や短歌を中心に文学活動を始めます。日清戦争では従軍記者として大陸に渡ったものの、その二日後に下関条約が調印。帰国の折に兵站部軍医部長として大陸にいた森鴎外に会っています。帰りの船旅で再び喀血し入院、松山にもどり療養をすることになります。

1897年には俳句誌『ホトトギス』を創刊。また翌年『歌よみに与ふる書』を新聞『日本』に連載します。古今集を否定し万葉集には高い評価を与え写実を説くなど、俳句や短歌の世界に革新を起こしました。その一方で病状は悪化し、1902にわずか35歳の若さで亡くなりました。子規は死の二日前まで、作品を書き続けていたと言われています。

※参照:夏目漱石ってどんな人?年表や代表作を小学生向けに解説!

正岡子規の年表をわかりやすく解説!


ここでは、正岡子規の年表をわかりやすい形でご紹介します。


・1867年(0歳)
現在の愛媛県に生まれる。
本名は常規(つねのり)で、後に升(のぼる)と改めた。

・1872年(4歳)
松山藩士だった父、正岡常尚が40歳でなくなる。

・1873年(5歳)
祖父である大原観山の私塾に通い始める。
寺子屋式の末広小学校に入学する。

・1880年(12歳)
松山中学校に入学する。

・1883年(15歳)
大学予備門受験のため松山中学を退学し、上京して共立学校(現在の開成高校)に入学する。

・1889年(21歳)
鎌倉旅行中に喀血する。結核と翌年診断される。
ホトトギスの句を作り初めて「子規」の号を名乗る。

・1890年(22歳)
帝国大学文科大学哲学科に入学。翌年には国文科に転化する。

・1892年(24歳)
帝国大学を退学し、日本新聞社に入社する。

・1895年(27歳)
日清戦争へ記者として従軍し、帰国の際に森鴎外のもとを尋ねる。
帰路で喀血して、神戸や松山で療養生活を送る。
夏目漱石の下宿に移り住み、句会を連日開催する。

・1897年(29歳)
雑誌『ホトトギス』を創刊し、与謝蕪村の作品などを研究する。

・1898年(30歳)
『歌よみに与ふる書』を発表して、短歌の革新運動を推し進める。

・1902年(34歳)
病状が悪化しなくなる。
東京北区田端の大龍寺に埋葬される。

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わずか34歳という人生の中で、正岡子規が短歌や俳句の世界に与えた影響は大きなものでした。

特に1889年以降は寝たきりの状態になる中で作品を作り続けると共に、河東碧梧桐や高浜虚子といった後進の指導をし続けたと言われています。そんな師匠に対して河東碧梧桐は手作りの扇風機を作ったとされているのですが、子規はこれを季語に出来ないかと考えたのだとか。創作に関する子規の情熱を示すエピソードですね。

正岡子規と夏目漱石の関係はどのようなものだったのか?


最後に、正岡子規と夏目漱石の関係について詳しく見ていきましょう。

この2人が出会ったのは1889年、東大予備門時代でした。お互い落語好きだったのがきっかけで親しくなったのだとか。実は夏目漱石の「漱石」という号は、実は子規の数あるペンネームの1つだったのです。また、2人は千葉県の房総半島を旅行した事もあり、この時子規は漱石の漢文、漢詩の才能に驚いたと言われています。

その一方で、成績優秀だった漱石がお米が稲から取れる事を知らなかったため、子規がとても驚いたというエピソードも残されています。

1895年には、松山中学校に英語教師として赴任していた漱石のもとへ、療養をかねて子規が訪れた事もありました。2人は漱石の下宿の中で俳句会を開き、多くの人々を呼び集めたと言われています。その後子規は東京に戻り、漱石は熊本へ移ったので会うのが難しくなりますが、書簡を通して近況報告などをする関係は続きました。

二人が最後に会ったのは、漱石がイギリスに留学する明治33年でした。この時、英国の漱石へ子規は「僕はもーだめになってしまった。……書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ」と最後の手紙を送っています。

自分は西洋に行けなかったが、漱石の手紙を読むと行った気になって嬉しいから、手紙を書いてくれと頼みましたが、イギリスで人種差別などでストレスを受け、神経を病んでいた漱石は手紙を書くことができませんでした。それを漱石はずっと後悔し『坊ちゃん』中編の序文で哀悼の意を表しました。

また、漱石の代表作「吾輩は猫である」は、子規の携わった「ホトトギス」で発表されているのも、彼を想う気持ちがあったのでしょう。

この二人は、論理的に話すという概念がなかった日本語を「近代化させる」ことに尽力した事でも共通点があります。一時は子規も「いっそ英語で喋ればいい」という意見になったそうですが、日本の心を残しつつ近代化した話し言葉を広めたのは、彼らの大きな功績だと思います。

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この記事のまとめ


正岡子規がどんな人だったのかを、年表や夏目漱石との関係を踏まえながらご紹介しました。

俳句や短歌の革新者として、あるいは若くしてなくなった事で知られる子規ですが、実は2002年に野球殿堂入りに選ばれている人物でもあります。子規はその生涯で野球に関する句をいくつか残しており、また野球用語の翻訳、そして「野球」という言葉をはじめて使った人物として知られています。

日本では昔から野球が盛んですが、もしも球界に対する子規の貢献がなければここまでの人気はなかったのでは…といった事を、記事を書いていてつい思ってしまいました。

なお、以下の記事では正岡子規による有名な俳句を5つ解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:正岡子規の俳句の中で有名な作品を5つご紹介。