歴史の教科書などに、必ず出てくる「検地」。
そもそも検地とはどんなことなのか、その方法とはどのようなものなのか。
そして、太閤秀吉が行った「太閤検地」と、それ以前の「検地」は、何が違うのか。
今回は、時代によって変化した「検地」の歴史をわかりやすく解説していきたいと思います。
そもそも「検地」とはどのようなこと?
検地とは、田畑などを測量し、その面積や境界を検査することです。
つまり、その地に、どれくらいの田んぼや畑などの土地があるかを調べることです。
この検地を初めて行った人物は、室町時代の武将、北条早雲(ほうじょうそううん)とされています。早雲以降の後北条氏も検地を重視しており、3代目の氏康は検地や家臣の所領の調査を細かく行い、民衆の税負担を軽減した事跡が知られています。
※参照:北条氏康ってどんな人物?年表や家紋についても解説!
では、どうしてこの北条早雲が検地を行おうと思ったのか。
この点を理解するには、平安時代に成立した「荘園(しょうえん)」を理解する必要があります。
当時、土地には国の所有する土地「国衙領(こくがりょう)」と、私的所有が許された土地である「荘園」の2つがありました。
「荘園」は、私的所有が許されているため、国が勝手に測量したり、租税を取ることは許されません。
反対に、所有する豪族などが、好きに税を取り立てることもできたのです。
そのため、荘園を多く所有する支配者たちが、莫大な利権を享受し、それに伴って過剰な税に苦しむ人民も出始めした。
その中で北条早雲は、公平を期すためにも、先ずは自分が手にした領地にある田畑などの正確な面積などを割り出そうとしたようです。
一見すると、とてもお人好しなだけのようにも思えますが、領地を強化するためにも、人民の忠誠や兵たちの士気の高さは重要です。
また、領地の地検を行い、その面積やその広さから収穫できる量などを正確に把握しておくことも、重要な戦略の一つでした。
こうした政策は、今川氏親・義元、そして織田信長などの多くの戦国大名が取り組んだことが知られています。
※参照:寿桂尼とは?夫の今川氏親や女戦国大名と呼ばれた理由を解説!
検地の方法と「指出検地」について解説
ここでは、検地がどのような方法で行われていたのかについて見ていきましょう。
検地の方法としてよく用いられていたのが「指出検地(さしだしけんち)」です。
指出検地とは、領内の領地から、土地台帳を提出させる検地の仕方です。
土地台帳とは、誰が支配していて、どれほどの面積があるのか、どれほどの収穫量があるのか、それらを記した帳簿のことです。
当時、上記であげた「荘園制」は私有地だったので、国の法律はその効力を発揮しませんでした。
荘園を支配する者によって、その荘園に住まう人民は支配され、その地での年貢なども支配者が自由に決められました。
そのため、多い時など、収穫量の半分を納めるなどということもあったそうです。
そして、この各自で各自の私有地を自由にできたことが、戦国時代に混乱を呼びます。
各地で有力な武将が台頭し、互いの領地を争い始めます。
気を抜けば、ついこの前まで自分の土地だったものが、あっさりと奪われる時代の幕開けです。
そうなってくると、いちいち手にした領地を測量している時間などありません。
けれど、新しく土地を得た支配者からすれば、その土地がどれほどの収穫量が見込めるのかは把握したいものです。
そこで考案されたのが「指出検地」だったのです。
しかし、この指出検地には最大の難点があります。
なぜなら、年貢率も違うことは当たり前ですが、それ以前に、面積の単位もバラバラ。
元々使っていた単位さえ、勝手に変えられていたりしました。
そればかりか、実際の収穫量さえ真実を記しているかも定かではないのです。
動乱の戦国時代であれば、それも致し方ありませんが、世の中が落ち着いて来ると、実際のところを正確に把握したいと思うのが支配者です。
そこで、時の権力者であった豊臣秀吉は、独自に定めた大規模な検地を行うことにしました。
※参照:豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた
次項では、この豊臣秀吉が行った「太閤検地」とそれ以前の「検地」の違いをわかりやすく解説していきます。
検地と太閤検地の違いについて解説。「一升枡」とは?
時は1582年。
時の権力者であった豊臣秀吉は、全国的な検地を行うことにしました。
それ以前は、単位は元より、誰が支配し、どのように年貢を納めるかも複雑化し、混迷を極めていました。
どこに誰がどれほどの土地を持ち、どれほどの年貢を納めているのか、また、どれほどの年貢を得ていたのか。
実情を把握することなどできない状態だったのです。
たとえば、戦国時代頃は、年貢などの税は一人単位ではなく、村などの集団単位で納めることが慣例化していました。
しかし、その納め先が、一人の支配者ではなかったりしたのです。
そうなってくると、できるかぎり年貢を抑えたい農民側に近しい立場の人間も、真実を記していない場合だってあるでしょう。
そこで豊臣秀吉は、全国的に共通化させた検地条目を使用することを考えたのです。
厳密に定めた単位を使用し、収穫量を測る道具にしても共通したものを使用した検地です。
それ以前の検地では、共通したものを使うということはありませんでした。
各自の土地で、各自が決めた測量方法による検地しか行われていなかったのです。
そう考えると、豊臣秀吉が行った太閤検地の方法とは、それ以前の検地とは違い、まさに画期的な方法であり、とてつもなく大規模なものとなりました。
方法としては、役人を方々へ派遣し、虚偽のない記録を取らせます。
それらは、「検地帳」と呼ばれる台帳にまとめられ、村ごとに、村の規模や建物の数、住民数や所有する田畑の面積、そして、収穫量が記されました。
例えば薩摩藩では1590年の太閤検地の結果、薩摩国28万3500石、大隅国17万5千石、日向国12万石といった石高が算出されています。
※参照:薩摩藩の領地や人口はどれ位?島津家の家紋についても解説!
ここで登場する有名な話が「一升枡」です。
豊臣秀吉は、当時、京都で使われていた枡を基準の枡として採用しました。
共通の枡を使用して測ることによって基準が定まるため、領地の違いなども比較してみられるようになります。
この一升枡は、現代にまで受け継がれていたりします。
検地には石田三成や増田長盛といった後に「五奉行」とされる武将の他、「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる糟屋武則といった、いわゆる武功面での功績が知られる人々が従事した事でも知られています。また、徳川家康の場合は秀吉の時代から自身の領地で独自に検地を行っていたことが知られています。
名を遺す統治者ほど、検地の重要性を理解していたと言えるかもしれませんね。
※参照:糟屋武則とは?豊臣秀吉や黒田官兵衛との関係について!
国の中のとある地域だけを治めていた時代が終わり、国全体を支配することになった豊臣秀吉。
そんな豊臣秀吉が行った「太閤検地」とは、全国的に共通基準となる検地条目を定め、それを使用して厳密に記録を取るという、当時からしてみれば革新的で大規模な検地方法だったです。
この記事のまとめ
今回は、「検地」の歴史をわかりやすく解説してみました。
検地とは、その土地の面積や収穫量を測量することです。
一概に「検地」といえども、その方法などは時代と共に変化していきます。
豊臣秀吉の時代になると、各々で不揃いであった検地結果では対応しきれなくなり、国的に共通基準を定めた「太閤検地」を行う必要がありました。
その後の天下を治めた徳川家康も、大規模な検地を行っています。
教科書などでは、さらっとした一文でしか出てこない「検地」。
しかし、その検地の歴史というのは、歴史を知るうえでは切っても切れない政策の一つなのです。