日本を代表する作家・川端康成(かわばた やすなり)。
日本国内だけでなく海外的にも認められた作家であり、ノーベル文学賞受賞作家です。
ですがその名前は聞いた事はあっても、彼自身がどんな人だったのかについてご存知の方は少ないかもしれません。今回は、川端康成の生涯を年表形式で解説してその人物像に迫ると共に、その代表作を5つに絞ってご紹介します。
目次
奇術師と呼ばれた作家・川端康成はどんな人?
まずは川端康成がどんな人だったのかを、わかりやすくご紹介します。
1899年に大阪で生まれた川端康成。旧家育ちの開業医だった父と、資産家の令嬢であった母の間の長男として誕生します。姉も含めた一家四人で、大阪市の北区此花町(現在の天神橋)で暮らしていました。
しかし、川端康成の父親は肺を患い、母親もその当時には父親と同じ病に侵されてました。そのため川端康成自身も、七か月という早産で、身体も小さく未熟だったそうです。そして、川端康成が二歳になる前に父が、三歳になる前に母が病で亡くなってしまいます。
その後は、姉は母の妹夫婦に、川端康成は父方の祖父母に引き取られ、兄弟は離れ離れになってしまうのです。
幼い頃に両親を亡くした川端康成は、命というものの儚さを知ることになり、また、両親への憧憬の念を強め、それが後世の作品にも色濃く影響を与えることになったと言われています。
川端康成自身も、作家として後に受けたインタビューで、幼少期の経験は自身の心に一種の虚無感のようなものを抱かせ、また、それによって後に経験した様々なことが、自分の感性を育てたと語っています。
たとえば青年時代に、作家であり実業家であった菊池寛によってその才能を見出された川端康成は、身寄りがなかったこともあり、菊池寛の援助を受けて生活しています。そのときには、文学に関わりを持つ色々な人を紹介されました。
そうして出会った芥川龍之介とは、共に歩いて回るような交流がありました。
また、他の文豪との関りとしては、芥川賞の銓衡委員だったとき、太宰治に対し厳しい選評を書いたことで、太宰治から激しい抗議の論稿を書かれるということもありました。
それとは反対に、生涯に亘って師弟関係となった三島由紀夫。この三島由紀夫のお嫁さんを紹介したのは川端康成でした。生涯、川端康成と三島由紀夫は、とても親しくしていたといいます。二人の手紙のやり取りなども、実は本になっています。
※参照:三島由紀夫ってどんな人?年表や代表作をわかりやすく解説!
では、川端康成がどんな人であったのか。
そのエピソードとして、かなり有名なものが幾つかあります。
彼は、人の顔を凝視する癖があったそうです。それこそ、周りが困惑するくらいの悪癖です。
たとえば、担当になった女性編集者と初対面の際、彼女が堪らず泣き出すまで黙って顔を見つめていました。しかも、その様子を見た川端康成は不思議そうに、どうしたのですかと問いかけたというのです。
また、芸者や舞妓が大好きだった川端康成は、何人もの芸者や舞妓を一列に並ばせて座らせると、そのまま二、三時間その顔を眺めるだけで過ごしました。そして、何事もなかったかのように笑顔で、ご苦労様と言って下がらせたというのです。
しかし、川端康成は文学だけでなく、美術や工芸など芸術への造詣が深かったそうです。その中でも、日本の美というものに強い関心を持っていたことで有名な作家です。そのため、数多くの美術品を収集し、それらを眺めて過ごすことも多かったそうです。
川端康成のもう一つの悪癖。
それは、夢中になると、常識はどこかに置いてきてしまうという人物でもありました。
欲しいものがあると、それがどんなに高額なものであろうと、お金を持っている知り合いに借りて買うか、もしくは、ツケにして踏み倒したという川端康成。
更に、借金の取り立てが来ても、ある時は払うし、無い時は無いのだから払えない、持っている奴が払えばいいと開き直ってしまうような奔放さがありました。また、「伊豆の踊子」の執筆の際には、無銭で四年半も旅館に宿泊し続けたという剛毅な逸話もあります。
その常人離れした金銭感覚のおかげで、複数の出版社に借金があったというのは、とても有名な話です。
それでも川端康成が世に残した秀逸な作品は、未だに多くの人々に愛され続けています。
そして、それらの作品は紛れもなく、そんな川端康成だからこそ書けた作品でもあるのです。
川端康成の人生を年表でわかりやすく解説!
この項では、川端康成の年表を出来るだけわかりやすく解説していきます。
・1899年(0歳)
大阪市北区此花町(現在の大阪市北区天神橋)に、臨月前、七か月で生まれる。
旧家生まれの開業医である父と資産家の令嬢を母、四歳年上の姉の四人家族の長男。
・1902年(3歳)
両親を亡くしたことで、父方の祖父母に引き取られる。
母の妹夫婦に引き取られることになった姉とは離れ離れになる。
・1906年(7歳)
大阪府三島郡豊川尋常高等小学校に入学。
虚弱体質のため、欠席がちではあったものの、成績はよく、作文などの才能を発揮。
育ててくれた祖母が亡くなる。
・1912年(13歳)
高等小学校を卒業。大阪府立茨木中学校に入学。
二年前に姉を亡くし、肉親は祖父だけとなる。
この頃から体質が改善され、欠席もなくなり一里半(五キロ)を徒歩で通学できるようになる。
・1914年(15歳)
作家を志望する気持ちが強くなる。
文芸雑誌を読み漁り、短歌に俳句、作文などの制作活動に励む。
祖父が亡くなり、寄宿舎に入ることになる。
・1917年(18歳)
中学校を卒業し、浅草蔵前の従兄を頼って上京する。
第一高等学校(現在の東京大学教養学部・千葉大学医学部・千葉大学薬学部の前身)の文科乙類に入学。
・1920年(21歳)
第一高等学校を卒業し、東京帝国文学部英文科に入学。
作家であり文藝春秋社を創設した実業家・菊池寛に援助・教えを乞う。
・1921年(22歳)
同級の石浜金作や鈴木彦次郎、今東光らと同人雑誌「新思潮」を発行。
発表した「招魂祭一景 」が好評となる。
菊池家で芥川龍之介や横光利一、久米正雄を紹介される。
通っていたカフェの女給・伊藤初代と恋愛、婚約するが、一方的に破棄される。
・1923年(24歳)
菊池寛の「文藝春秋」に参加。
関東大震災を経験し、病を患っていた芥川龍之介を今東光と見舞い、三人で被災地を見て回る。
翌年、東京帝国大学国文学科を卒業。
・1926年(27歳)
処女作品集「感情装飾」を刊行。
湯ヶ島での生活を始める。
・1927年(28歳)
三月に「伊豆の踊子」を刊行し、八月には新聞小説「海の火祭り」を連載。
十二月には熱海に移り住む。
・1931年(31歳)
26歳の時から同棲していた松林秀子と結婚。
1933年(34歳)
「禽獣」「末期の眼」「を執筆。
「文学界」を創刊。
翌年六月、越後湯沢に行き、「雪国」の連作の執筆を開始。
1935年(36歳)
芥川賞の銓衡委員になる。
発熱が相次ぎ、入退院を繰り返す。
・1944年(45歳)
発表した「故園」「夕日」などによって菊池寛賞を受賞。
源氏物語などの古典文学に読みふける。
・1946年(47歳)
鎌倉文庫から雑誌「人間」を創刊し、三島由紀夫の「煙草」を掲載。
鎌倉市長谷に転居。
・1949年(50歳)
後の代表作でもある「千羽鶴」や「山の音」の連載を開始。
・1952年(53歳)
「千羽鶴」を刊行、芸術院賞を受賞。
・1961年(62歳)
「古都」「美しさと哀しみと」の執筆のため京都に家を借りる。
文化勲章受章。
翌年には「眠れる美女」で毎日出版文化賞を受賞。
・1968年(69歳)
ノーベル文学賞を受賞し、十二月にはストックホルムでの記念講演。
・1971年(72歳)
一月に三島由紀夫の葬儀委員長を務める。
三月に盲腸炎のため入院。以降、体調が改善せず。
四月十六日夜、逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺。
日本国内だけでなく、世界的にも認められたノーベル文学賞受賞作家・川端康成。
川端康成は、幼い頃に肉親を次々と亡くし、人に頼らなければ生きていけない多感な時期を過ごしたといいます。そして、その後の人生でも次々に同志や友人を亡くし、はては弟子の三島由紀夫まで亡くしました。
そんな川端康成が残した数々の代表作は、それこそ多彩な作風を見せます。それは、経験から身についた繊細な感性があったからだとも言われています。
川端康成の代表作を5つに絞ってまとめてみた。
そんな川端康成の代表作を5つ、厳選してわかりやすく解説していきます。
川端康成の代表作(1)「伊豆の踊子」
主人公は、孤独感や憂鬱な気分、そして、そこから曲がりくねってしまった自分の心に嫌気がさした青年・川島。彼は、日々の鬱積とした気分から逃れるために、伊豆へと一人旅に出る。そこで出会ったのが、旅芸人の一座。
この一座と川島は道連れとなり、旅をしていく。そして、その一座の一人、踊り子の少女・薫(かおる)。この薫はとても純粋で無邪気な少女だった。そんな薫と接することで、川島の心は次第に癒され、解けていく。
川端康成の初期の頃の短編小説ではありますが、言わずと知れた代表作の一つです。この作品は、川端康成の実体験をもとに描かれた作品でもあり、この出会いから人の厚意に対し、素直になれるようになったと言われています。
川端康成の代表作(2)「抒情歌(じょじょうか)」
語り手「私」が、恋した相手の「あなた」に語りかける形式で綴られた小説です。
「私」は、幼い頃から霊感を持ち「神童」と呼ばれる子供だった。そんな「私」があるとき、夢の中で出会った「あなた」に恋をする。そして、現実で再び「あなた」に出会い、恋をした。しかし、「あなた」は婚約者であったはずの「私」が帰省している間に、綾子という女性と結婚してしまう。「あなた」を失った「私」は、羽をもがれたように霊感も失い、その後「あなた」が死んだことさえも気付かなかった。そして恨み妬みを抱え生きていた「私」は、「輪廻転生の抒情詩」を知り、そこから再び天地万物への愛を取り戻す。
こちらも川端康成の短編小説です。そして、これもまた実体験のお話が基になっています。一度は結婚という話にまでなった伊藤初代との婚約破棄、そして失恋。それを乗り越えた川端康成だからこそ描けた芸術性の高い作品です。
川端康成の代表作(3)「雪国」
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
川端康成の作品を読んだことのない人でも、この冒頭の一文は知っているという方も多いのではないでしょうか。
このお話は、東京に妻子がいる島村という男が主人公です。この男が、雪国の温泉街で働く女性を訪れるという物語。現実の世界である東京、そして、どこか非現実な雰囲気を持つ雪国。それがトンネルで繋げられている。
この作品は、川端康成の作品の中でも難解だと言われることの多い作品です。余計な言葉はすべて取り払われ、絶妙な言葉選びや言い回しのある文章。そして、読者に与える臨場感やスピード感。さすがは、日本が誇る作家・川端康成の代表作と、いえる作品です。
川端康成の代表作(4)「山の音(やまのおと)」
川端康成の傑作であり、戦後の日本文学の最高峰に位するもの、とまで称賛された代表作です。
主人公は、東京の会社の重役である六十代の男・尾形信吾。そして、舞台はその老夫婦が住む家。登場人物は、この老夫婦以外に、長男とその嫁、そして、嫁いだけれど子供を連れて戻って来た長女と、その二人の娘の間で物語は進みます。
物語には、家族がそれぞれ抱える問題、そして、嫁の菊子を通し、かつて信吾が憧れた女性への思慕が繊細に、主人公の信吾視点で描かれています。
川端康成の代表作(5)「古都」
生き別れた双子の姉妹が、偶然再会する。離れていた時を取り戻すかのように心通わせる姉妹。しかし、二人が生きていく世界は現実として重なるものではなかった。
古都・京都の伝統や文化、そして四季折々の美しい風景を描き込んだ川端康成の代表作。
この作品は、日本国内でも評価は高かったのですが、それ以上に海外での評価が高い作品です。
川端康成自身、古く次第に失われていってしまうものを書いておきたかったと答えています。
日本の古都を知るには、欠かせない一作ではないでしょうか。
この記事のまとめ
このページでは川端康成がどんな人だったのかを、年表や代表作と共にご紹介しました。
国内だけでなく、海外にもその才能が認められ、数々の代表作を残した川端康成。しかし、その人生は、親しい者との別れが多く散りばめられたものでした。
幼い頃に両親や姉、祖父母などの肉親を亡くし、後には同志となった友人たちを続けてなくします。そして、最後には、師弟関係であり、年齢を超えた友人、三島由紀夫の死・・・
こうした孤独に耐え、生き続けてきた川端康成。そんな川端康成という人物を知ることで、彼の代表作などを読んでみると、また違った発見があるかもしれませんよ。
※追記;2021年5月16日
21年5月、川端康成が友人の評論家・大宅壮一(おおや そういち)の葬儀で読んだ弔事の原本が発見されたと報じられました。この弔事、複製は存在していたものの、原本の所在が不明だったとのこと。内容としては大宅壮一の人柄に触れつつ、その死を悲しむものとなっています。
川端康成と大宅壮一は帝大時代から深い付き合いがあり、一時期は家族ぐるみでの付き合いがあった仲でした。この弔事は1970年に読んだもので、その2年後には川端もなくなっています。その時、彼の脳裏には大宅と共に過ごした青春時代が浮かんでいたのか、気になるところです。
>彼は、人の顔を凝視する癖があったそうです。
昭和40年頃川端先生は睡眠治療で東大の内科に入院しておられました。私は大学院生で夜中までよく仕事をしていたのですが、内科の廊下を歩いていると川端先生も眠れないのか廊下を一人で歩いておられました。私の足音を背後に聞くと立ち止まり一回転して腕を組み、あの大きな目で私を睨みつけるのです。私は恐れ多くて一言も発せず一礼して先生のわきを通り抜けました。何度かそういうことがありました。後に渡米して、コロンビア大学の教員アパートに住みましたが、同じビルに川端先生と仲のよかったドナルド・キーン先生が住んでおられました。キーン先生も廊下やエレベーターで会うと私を睨むのです。しかしキーン先生の図書室から谷崎潤一郎全集や高見順全集を全部借りてきて読みました。(ニューヨーク発)