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日本の歴史を勉強していると、男の人ばかりが登場しますよね。

そんな中でも、女性でありながら名前を残すほど活躍した人物に、北条政子(ほうじょうまさこ)という人がいます。

一体どんな人だったのでしょうか。

このページでは北条政子がどんな人だったのかを、政子がしたことや年表を交えながら簡単にわかりやすくご紹介します。
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北条政子ってどんな人?政子がしたことを簡単に解説


北条政子(ほうじょうまさこ)がどんな人だったのかを、彼女がしたことを中心に簡単にご紹介します。

北条政子は1157年に、伊豆(現在の静岡県)で役人をしていた北条時政(ときまさ)の長女として生まれました。

当時、父の時政は、京都から伊豆へと島流しにあった源頼朝を見張る仕事をしていました。

政子の弟には、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公になった北条義時(よしとき)がいます。

※参照:北条義時ってどんな人?年表や執権政治を中学生向けに解説!

源頼朝と結婚する

1177年ごろ、政子は源頼朝と恋愛関係になり、やがて2人は結婚します。

ところが、当時の頼朝は罪人という立場だったため、父親の時政は政子の結婚に大反対します。

時政は娘と頼朝が結婚することで、平家から目をつけられるのが嫌だったようです。

ですが、時政らの反対を押し切って2人は結婚。

後に頼朝は平家を倒すために立ち上がりますが、後には引けない時政は頼朝をバックアップ。

弟の義時も頼朝に協力し、ついに頼朝は平家との戦いに勝利します。

政子の意志の強さと、北条家の力強さを感じるエピソードですね。

※参考:源頼朝のプロフィールや年表を小学生向けにわかりやすく解説

頼朝との間に4人の子供を産む

政子は頼朝との間に4人の子どもを産んでいます。

長女の大姫が産まれたのは1178年。

長男の頼家が産まれたのは1182年。

次女・三幡は1186年で次男・実朝は1192年でした。

このうち長男の源頼家は鎌倉幕府の2代目の将軍に、次男の実朝は3代目の将軍になります。

ですが、この4人の子供は、すべて政子より先に亡くなっています。

特に長女の大姫は、婚約者である源義高(よしたか)が頼朝に殺されたことで心を病んでしまい、わずか20歳で亡くなっています。

この時は頼朝も生きていたので、夫婦そろって非常にショックだったでしょうね…。

次女の三幡も14歳で亡くなっているのですが、この後すぐに頼朝も死去しています。

夫と子どもに先立たれ、政子はどれほど悲しかったでしょうか…。

長男の源頼家を伊豆に閉じ込める

さらに、政子は長男で鎌倉幕府2代目の将軍となった源頼家から将軍の位を奪い、伊豆に追放しているのです。

夫の頼朝が1185年に開いた鎌倉幕府は、99年に頼朝が亡くなったことで頼家があとを継ぎます。

この時、政子は頼朝の後を追って死ぬことを考えますが、2人の息子のことが気になり、思いとどまったそうです。

しかし、頼家は頼朝に仕えていたベテランの家来の意見を聞かず、自分勝手に政治を進めていきます。

一方で蹴鞠に夢中になるなど、政治をサボっていた事もあったようです。

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そんな頼家を政子はついに見限り、1203年には頼家をお坊さんにさせて、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)というお寺に閉じ込めてしまうのです…!

これだけでもビックリですが、翌年には政子の弟・北条義時の家来が頼家を殺してしまいます。

後を継いだ次男の実朝の地位を固めるという目的もあったのですが、政子は愛する長男の最後をどのような気持ちで聞いたのか…

夫・頼朝が残した鎌倉幕府を守るために、心を鬼にしたのかもしれませんね。

父親の北条時政を伊豆に追放する

頼家の次に将軍になったのは、政子と頼朝の次男である源実朝でした。

この時、政子の父親である時政が「執権(しっけん)」として政治を行います。

ですがその2年後の1205年、時政が実朝を殺そうとした計画が発覚するのです…!

時政は後妻・牧の方との間に生まれた娘婿である平賀朝雅(ひらが ともまさ)を将軍にしようと企み、実朝を殺そうとしました。

ちなみにこの牧の方という女性、政子の実の母親ではありません。

時政夫妻の企みを知った政子は激怒。

弟の義時らと協力し、父親である時政を伊豆に追放してしまうのです。

ちなみに牧の方は許され、その後はふるさとである京都で優雅に暮らしたのだとか。

牧の方、政子に負けないくらい強い女性ですね…。

※参照:北条時政の生い立ちや出身地の伊豆について解説。父親は誰なのか?

「尼将軍」として鎌倉幕府を支える

こうして鎌倉幕府は実朝をトップとして、政子の弟である義時が政治を行う体制となります。

しかし1219年、実朝が暗殺される事件が起こります。

政子は息子を失うとともに、鎌倉幕府存続の危機を迎えます。

そこで政子たちは、朝廷の権力者である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の息子を将軍にしたいと考えます。

ところが、政治の権力を鎌倉幕府から天皇家へと奪い返したいと考えていた後鳥羽上皇は、この案を断ったのです。

そこで鎌倉幕府は仕方がなく、藤原家から連れてきたわずか2歳の男の子(後の藤原頼経)を将軍にします。

そして政子はこの頼経の後見人として、将軍の仕事を代わり行うことになります。

こうして女性ながら将軍と同じ仕事をこなす政子は、後に「尼将軍」と呼ばれるようになったのです。

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承久の乱で鎌倉幕府の武士をはげます


1221年におこった承久の乱(じょうきゅうのらん)は、政子がしたことで最も有名な出来事かもしれません。

承久の乱は「鎌倉幕府最大のピンチ」と言われた出来事でしたが、政子はこの時、頼朝の家来たちを上手くコントロールして戦いに勝利します。

ところが、政治の権力を鎌倉幕府から天皇家へと奪い返したいと考えていた後鳥羽上皇は、この案を断ったのです。

こうした背景のもとで承久の乱は起こりました。

戦いの前、政子は「源頼朝公のご恩を忘れてはいけない」と言い、鎌倉幕府に味方する武士たちを励ましました。

政子の言葉で勢いを得た鎌倉幕府側は、数でも上皇側を圧倒。

各地で上皇側の武士との戦いに勝ち、ついに京都に攻め込むのです。

後鳥羽上皇は隠岐島に配流(島流し)され、これ以降、武士の力はより強くなっていったのです。

※参照:承久の乱を簡単にわかりやすく解説。場所やその後の意義は?

その後、政子は承久の乱の処理や、弟・義時が亡くなった後の幕府を安定させながら、1225年に亡くなります。

北条政子とは、意志の強い女性であるとともに、女性でありながら男性と同じように仕事を行ったと言えそうですね。

北条政子の年表を簡単にわかりやすく解説!

北条政子の年表についても、簡単にわかりやすくまとめてみました。

年(年齢)出来事
1157年(0歳)北条時政の長女として生まれる。
1177年(20歳)周りの反対を押し切り、源頼朝と結婚する。
1180年(23歳)夫の源頼朝が、平氏を討つために挙兵する。
1182年(25歳)長男で鎌倉幕府の2代将軍となる源頼家(よりいえ)を出産する。
1192年(35歳)夫の頼朝が、武士のトップである征夷大将軍に就任する。
次男で、3代将軍となる実朝(さねとも)を出産する。
1199年(42歳)頼朝が亡くなる。頼朝を弔うためお坊さん(尼さん)になる。
長男の頼家が第2代将軍を継ぐ。
1203年(46歳)頼家が出家し、次男の実朝が第3代将軍を継ぐ。
1205年(48歳)父親の時政を伊豆に追放する。
1219年(62歳)実朝が暗殺される。
源頼朝の直系が絶えたため、京都出身の藤原頼経を連れてきて、4代将軍にする。
政子は「尼将軍」となり、頼経の後見人となる。
1221年(64歳)朝廷との間に承久の乱(じょうきゅうのらん)がおこる。
尼将軍として、鎌倉幕府の武士たちを奮い立たせ、幕府方が勝つ要因となる。
1225年(68歳)北条政子が亡くなる。

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親の反対を押し切ってまで源頼朝と結婚して、頼朝が亡くなった後は息子たちを支え、鎌倉幕府を盛り立てた北条政子。

子供たちが亡くなった後に、天皇家との争いである承久の乱が起こると、兵士たちを励まして鎌倉幕府軍の勝利に力を尽くしました。

夫や子どもが先に亡くなってしまい、女性でありながら将軍と同じような仕事をこなした政子は、とても強くて立派な女性と言えそうですね。

この記事のまとめ


このページでは北条政子がどんな人だったのかを、政子がしたことを軸に年表も交えながら簡単にご紹介しました。

子ども全てに先立たれ、父親を追放しながらも鎌倉幕府を守り抜いた政子の生き方は、なかなか真似できないな…と感じます。

そんな政子を「日本三大悪女」と呼ぶ声もあります。

興味があれば、以下の記事もご覧になってみて下さい。

※参照:日本三大悪女とは?北条政子、日野富子、淀殿の性格について!