貼り付けた画像_2017_05_07_0_30 応仁の乱の主要人物として知られる畠山義就(よしひろ)と畠山政長(まさなが)。

名前は知ってるけど、両者の関係や詳しい人物像をご存知の方はそう多くはないのではないでしょうか。今回は畠山義就と政長の関係をはじめ、応仁の乱での動向や両者の子孫の有無などをわかりやすくご紹介します。

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畠山義就と畠山政長の関係は?家督争いの背景も解説


畠山義就と畠山政長ですが、この2人はいとこの関係にあたります。以下の図のように、義就の父親である畠山持国と、政長の父親である畠山持富が兄弟にあたる為です。

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義就の母親の身分が低い事もあり、当初畠山持国は弟の持富を後継者にしようとしていました。しかし1448年に気が変わり、持国は庶子である義就を後継者にしようと考えます。持富自身はこれに納得していたものの、家臣の一部にはこの人事に納得しない者もおり、彼らは1450年の持富死後、その子である弥七郎および政長を推す事になります。

この畠山家の家督争いが、応仁の乱の引き金へと繋がっていきます。持国の死後、その後を継いだのは義就の方で、将軍・足利義政もこの人事を支持していました。
しかし、1457年に大和国で騒動が発生し、この処理に義就が失敗した事で、義政ら幕府は畠山家の家督を政長へ譲るようにと義就に要求。これを拒んだ義就は1460年から2年以上かけて幕府と戦いますが敗れ、紀伊や吉野へと逃走します。

一方の政長は、1464年に細川勝元の後任として管領職に就任する事となりました。

応仁の乱における畠山義就と畠山政長の動向は?


やがて幕府の恩赦によって、義就はこれまでの行いを許される事になります。そして時代は応仁の乱が勃発する直前であり、山名宗全と細川勝元の2大勢力に足利家や有力守護大名が接近している状況でした。畠山家では義就が山名宗全に接近します。一方、管領になった政長のバックには、引き続き細川勝元の姿がありました。

1466年12月になると義就が上洛。政長の管領職の辞任を要求します。これによって御霊合戦(ごりょうがっせん)が勃発し、この戦いによって応仁の乱がはじまったと言われる事も。応仁の乱における両者の動向としては、義就が西軍の有力武将として各地を転戦したのに対し、政長は義就から河内国を奪還するものの、自ら率先して戦に関わる事は少なく、家臣に任せる事が多かったと言われています。

そして細川勝元、山名宗全がなくなると、両者の後継者によって和睦が持ち上がります。この時、講和に反対していた義就は、その後も戦いを続け最終的に政長から河内国を奪い返す事に成功しています。
一方、再度管領職に就任した政長ですが、職務自体は日野勝光に担われている状態であり、また自領であった河内国の実効支配を取り戻すため、応仁の乱終了後も義就と戦わなければいけない状態が続きました。

応仁の乱後の畠山義就と政長の動向は?


その後も河内国や山城国で戦い続けた義就と政長。このうち義就の家系を畠山総州家、政長の家系を畠山尾州家と呼ぶ事があります。1482年に細川政元の後ろ盾を受けた政長は義就討伐に乗り出しますが、義就はこれを撃退。また、両者の争いに業を煮やした国人衆が1485年に国一揆を起こし、両畠山家が山城から退去した事もありました。

1486年になると、政長は管領職を細川政元に交代するも。この頃から政長は政元と対立するようになります。1489年に将軍に就任した10代将軍・足利義材の信認を得る形で政元に対抗していた政長ですが、後の11代将軍・足利義澄を推す政元らによって1493年、クーデターを起こされ自刃する形で最後を遂げます。

一方の義就も1491年になくなっており、その跡を子供である畠山義豊が継いでいました。畠山義豊は政元の支持のもと畠山家当主の地位と河内守護を継いでいましたが、これに不満を持った政長の息子である畠山尚順と戦い続ける事に。この中で義豊は1499年に戦死。尚順も畠山家のかつての勢力を取り戻す事なく力を落として世を去ります。

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畠山義就と畠山政長の子孫はどうなった?


その後の畠山家は、義就の家系(総州家)と政長の家系(尾州家)の2つに分かれる事となります。このうち義就の子孫にあたる総州家は1520年代に重臣の木沢長政が台頭し、家臣の多くも長政に従う事に。しかし1542年の太平寺の戦いによって長政が戦死すると、総州家は事実上解体する事になります。総州家7代目当主である畠山尚誠の子孫は豊臣秀頼に仕えたと言われているものの、その詳細は定かではありません。

一方、政長の子孫にあたる尾州家の当主は家臣によって実権を奪われていたものの、1550年代に畠山高政が登場し三好長慶や織田信長と戦います。また、高政の甥の子供にあたる畠山政信は秀吉の家臣である片桐且元に仕え、その後は且元の縁により豊臣秀頼に仕えたと言われています。

この政信の子孫が、高家として江戸時代を通して存続しました。このうち政信の子供である畠山基玄(もとくろ)は江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に信頼され側用人にまで抜擢されています。幕末期の当主は畠山基永(もとなが)という人物で、恐らく現在も政長の子孫にあたる方はいらっしゃるのではないかと思います。

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この記事のまとめ


畠山義就畠山政長について、両者の関係や応仁の乱における動向、その最後や両者の子孫も含めご紹介しました。

元々いとこの関係にあたる義就と政長。両者の家督争いの原因は、義就の母親の身分が低い事を一部の家臣が不満に思った事でした。応仁の乱では義就は西軍の主力として戦った義就は、戦後も政長の領国であった河内国を占拠するなど戦い続けます。しかし義就の子孫にあたる総州家は重臣の木沢長政の台頭、そしてその没落と共に歴史の表舞台から消えてしまいました。

一方の政長は細川勝元・政元親子の後ろ盾を受けていたものの、やがて政元と対立。1493年に勃発した明応の政変によって政長はその最後を迎えます。しかし政長の家系にあたる尾州家は戦国時代に畠山高政が登場。江戸時代には高家旗本という形で存続しました。家督争いを巡って戦い続けた義就と政長ですが、子孫のその後を振り返ると政長の勝利と言えるかもしれませんね。

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