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あなたは桓武天皇についてご存知ですか?
学校の教科書にのっているため、名前は聞いたことがある人も多いかもしれません。

では、桓武天皇がなぜ学校で学ぶほど、日本史に名を残すことになったのか。それは桓武天皇が積極的に行った政治、政策によるところが大きいのです。

今回は、その桓武天皇について年表を交えながらご紹介します。
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桓武天皇ってどんな人だったの?


まずは桓武天皇がどんな人だったのかを、簡単に見ていきましょう。

桓武天皇は737年に、光仁天皇(当初は白壁王と名乗っていました)の第一皇子として生まれました。ただし、自身や父が天智天皇の皇統という経緯から、当初は官僚としての教育を受けていました。当時の天皇の位は、天武天皇の流れを組む聖武天皇や孝謙天皇=称徳天皇がついており、桓武天皇自身が天皇の位に付く事は予定されていませんでした。

しかし、天智天皇を血を引く光仁天皇が即位した事を機に、桓武天皇にも天皇の位がもたらされる可能性が出てきます。ただ、生母が百済系渡来人の血を引く高野新笠であったため、当初は立太子は見送られていました。しかし、藤原四家の1つである式家の擁立により、773年に皇太子となりました。

そして781年に、桓武天皇は50代目の天皇として即位します。即位してからは、長岡京および平安京への遷都や蝦夷討伐を行った他、最澄や空海といった新しい仏教を保護した事でも知られています。こうした思い切った事が出来たのは、青年期に受けた官僚としての教育がバックボーンにあったと言われています。

※参照:藤原京、平城京、長岡京、平城京の違いとは?場所や特徴を解説!

桓武天皇の生涯を年表をとおして分かりやすく解説!


ここからは、桓武天皇の年表について出来るだけ分かりやすく解説します。


・737年(0歳)
白壁王(後の光仁天皇)の第一皇子として生まれる。

・770年(33歳)
父の白壁王が光仁天皇として即位する。

・773年(36歳)
義母弟の他戸親王(おさべしんのう)が廃されたため、皇太子となる。

・781年(44歳)
父より譲位され、天皇として即位する。

・784年(47歳)
山城国(現在の京都府南部)に長岡京を造営する。

・785年(48歳)
弟で皇太弟の早良親王を廃する。

・789年(52歳)
第一次蝦夷討伐を起こすが、敗北する。

・794年(57歳)
都を平安京へ移す。
第二次蝦夷討伐を行う。坂上田村麻呂が活躍する。

・801年(64歳)
坂上田村麻呂を征夷大将軍として第三次蝦夷討伐を行う。

・806年(69歳)
崩御

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長岡京、そして平安京への遷都や、3度に渡る蝦夷討伐など、桓武天皇は大規模な政策を果敢に行った天皇として知られています。ただ、こうした巨大事業によって百姓が苦しんだ側面もあり、そのため本来805年にも行うはずだった蝦夷討伐を中断せざるを得ない事態も発生しています。

桓武天皇が行った政治、政策はどのようなものだったのか


最後に、桓武天皇が行った政治、政策について改めて見ていきましょう。

桓武天皇の政策で最も大きなことと言えば、二度の遷都です。当時、都は平城京にありましたが、物資の運搬が不便だという弱点がありました。また、奈良時代に力を持っていた仏教勢力や、天武天皇の皇統のもとで影響力を持っていた貴族勢力との距離を置きたかったという事情もあり、784年に水路が確保できる長岡京に都を遷したのです。

しかし、その後長岡京建設の責任者である藤原種継の暗殺、弟の早良親王の廃嫡、そして日照りや疫病といった出来事が起こったことから、794年に再度、都を平安京へ移しました。この平安京こそが、今後長い間日本の中心となっていくのです。


また、桓武天皇の政治で有名な出来事に蝦夷討伐が挙げられます。蝦夷との戦争は、桓武天皇が即位する前から行われていましたが、本格的に実施されるようになったのは桓武天皇の時代から。結果としては坂上田村麻呂らの活躍によって、現在の岩手県盛岡市に志波城が建設されましたが、この戦争が民衆に与えた負担は小さなものではなかったと言われています。

この他には、奈良時代に栄えていた「南都六宗」と呼ばれるこれまでの仏教勢力と距離を置き、遣唐使として中国で新しい仏教を学んだ最澄や空海を保護した事も知られています。また、日本書紀に継ぐ歴史書である「続日本紀」の編纂を行った事でも知られています。


これら一連の政策は桓武天皇自らが主導し、積極的に政策に関わりました。官僚としての経験を積み、40代になってからの即位した事が桓武天皇の指揮能力を成熟させ、大きな政策も実施できたのかもしれませんね。

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今回のまとめ


桓武天皇がどんな人だったのかを、年表や行った政治、政策と共にご紹介しました。

2度に渡る遷都や蝦夷討伐、新しい仏教勢力の保護、続日本紀の編纂など、こうした政策を見れば、桓武天皇がなぜ学校の教科書に名を残した天皇だったのかが分かると思います。

今でも栄える京都。その成り立ちに一人の天皇が関わっていたのだということを、ぜひ頭の片隅に置いていただければ幸いです。

なお、以下の記事では桓武天皇を含めた古代日本の代表的な4人の天皇について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違いやしたことを解説