幕末において大きな活躍をした長州藩ですが、この藩があった場所は一体どこだったのかご存知ですか?また、なぜ長州藩はこの時期、倒幕を行ったのでしょう。
長州藩の場所や家紋について解説しつつ、この藩が倒幕を行った理由についても検証してみました。
目次
長州藩があった場所はどこ?
まずは長州藩の場所がどこにあったのかについて解説します。
長州藩があったのは現在の山口県です。
当時の山口県は周防国(すおうのくに、現在の山口県東南)と長門国(ながとのくに、現在の山口県西半分)という2カ国に分かれていて、藩主の毛利家はこの2カ国を納めていました。
長州藩の中心である藩庁は、現在の山口県北部にある日本海に面した地である萩市にあった萩城に置かれていました。そのめ長州藩のことを萩藩と呼ぶ事もあります。
以下は、長州藩の中心であった現在の萩市の場所です。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/萩市
幕末になると、長州藩は藩庁を現在の山口市にあたる山口城に移します。このため周防山口藩とも呼ばれるようになりました。
以下は、幕末の長州藩がおかれていた現在の山口市の場所です。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/山口市
長州藩の支藩の場所もまとめてみた
また、長州藩には「支藩」という、藩主の毛利家一族が治める藩がいくつか存在しました。その1つが現在の山口県下関市の長府という地域におかれた長府藩です。長州藩の始祖である毛利元就の4男である穂井田元清の系統の人物が藩主を務めていました。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/下関市
2つ目が徳山藩で、現在の山口県下松市に位置しています。長州藩の初代藩主である毛利輝元のの次男・毛利就隆の系統が藩主を努めていました。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/下松市
山口県の東に位置する岩国市には、岩国藩があります。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/岩国市
この藩は毛利輝元のいとこである吉川広家の系統が藩主を務めていましたが、長府藩や徳山藩と異なり、本家からは家臣扱いされ、支藩と見なされなかった経緯があります。
吉川広家は関ヶ原の戦いで徳川家康(東軍)に通じており、これを良く思わなった人々が毛利家の中に少なくなかった事情があります。岩国藩が藩として正式に認められたのは、江戸幕府が大政奉還を行った後の1868年のことでした。
長州藩の家紋について解説!
そんな長州藩ですが、家紋は一体どのようなものだったのでしょうか?
長州藩を治めていた毛利家の家紋は「一文字三星」と呼ばれるものです。
一の文字の下に、丸い点が3つの三角形を形どったデザインです。
この「一文字三星」紋ですが、「一文字」の字体が微妙に異なる似たような家紋が、長州藩の支藩において見られます。
こちらが長府藩で、
こちらが徳山藩、
こちらが清末藩(長府藩の支藩です)になります。
これらの家紋の成り立ちですが、毛利家の祖である大江氏の家祖である平城天皇の第一皇子である阿保親王にあると言われています。
この阿保親王は死後、その位である「一品」にちなみ「一品親王」とも称されたことから、学者だった大江広元がこの一品の文字を図案化し、この「一文字三星」紋を創ったそうです。
品の字にあたる●ですが、これはオリオン座の真ん中に位置する「大将軍星・左将軍星・右将軍星」からなる「三武」別名「将軍星」を表現しているとも言われています。
「武」や「将軍」などの響きが良いことから、武家が家紋に用いたようです。
また「一」という文字は「無敵」という意味も込められていたので、さらに威光を高める紋になったのですね。
岩国藩の家紋が長州藩と異なる理由は?
ちなみに岩国藩は一文字三星紋ではなく、吉川家が用いていた「九曜」紋を用いていました。九曜紋はもともと室町幕府の管領を務めていた細川家の家紋でした。
1467年、応仁の乱が勃発した際、当時の吉川家の当主が細川側についた事で、家紋の使用を許されたと言われています。
岩国藩の藩主である吉川家は、もともと毛利家と同じ安芸国(現在の広島県)の豪族でしたが、毛利元就の次男・元春が養子として入り、毛利家に乗っ取られた経緯があります。
こうした背景から、岩国藩には「吉川家と毛利家は別」という考え方が根強く存在したと言われています。
長州藩が討幕を行った理由とは?
長州藩と言えば、幕末に倒幕を主導した事でよく知られていますよね。
ではなぜ長州藩は幕府を倒す事になったのか。その理由を見てみましょう。
長州藩を倒幕へ動かしたのは、吉田松陰の影響を受けた若い藩士たちの行動力でしたが、その裏には家老であった周布政之助の働きかけ、あるいは「そうせい候」と呼ばれる藩主、毛利敬親が彼らの行動を事実上黙認していた事が大きかった面がありました。
敬親は1849年、「明倫館」と呼ばれる藩校を作り若手藩士の教育に力を入れています。こうした藩の上層部の姿勢も、長州藩が倒幕へ舵を切った大きな要因と言えるでしょう。
この他には、長州藩は地理的な理由もあり、常に海外の動向に気を配る必要がありました。
外国との対応に関しては開国派の長井雅楽から攘夷派の久坂玄瑞まで色々な意見があったものの、「このままじゃマズい」という認識自体は、藩の誰もが持っていた事でしょう。こうした問題意識が倒幕へ流れていったとも考えられそうです。
また、長州藩の藩主である毛利家は、江戸幕府によって100万石以上あった領地を30万石に減らされた歴史的背景がありました。この点も、長州藩が倒幕へ向かった大きな理由として挙げられるでしょう。
ちなみに長州藩では、新年拝賀の儀において、
家老「今年は討幕の機はいかに」
藩主「時期尚早」
このような会話が交わされていたと言われています。
この会話の真偽は2000年、当時の毛利家当主であった毛利元敬氏によって「俗説」として否定しているのですが、こうした噂が残るという事自体が、長州藩の中に幕府を倒すという情熱があったと言ってもいいのではないでしょうか。
もっとも、当時の長州藩は討幕派と保守派の主導権争いが激しく、藩全体が倒幕でまとまっていた訳ではありません。
それぞれのトップが粛清される事も少なくなく、例えば前述した家老の周布政之助も保守派によって切腹されられてますし、その保守派のトップであった椋梨藤太も高杉晋作の挙兵後、処刑されている程です。
倒幕を主導した長州藩でしたが、その裏には多くの藩士の犠牲があった事も見逃せない事実と言えるでしょう。
この記事のまとめ
このページでは長州藩の場所や家紋について解説すると共に、倒幕を行った理由についても検証してみました。
長州藩があった場所である萩は、日本海側に面した場所でした。そのため、海外情勢についての情報は豊富にあった事でしょう。
こうした攘夷派が育ちやすかった風土や、藩主・毛利敬親による優れた家臣の意見が通りやすい風土の整備が、長州を討幕へと突き進めた理由だったのではないでしょうか。
なお、以下の記事では、長州藩と共に倒幕を推し進めた薩摩藩のあれこれについて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:薩摩藩の領地や人口はどれ位?島津家の家紋についても解説!