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旧五百円札に描かれた岩倉具視をご覧になったことはありますか?
麿顔からはほど遠いイカツイ外見から、幼少時は同じ公家の子女から「岩吉」と呼ばれたことも・・・

歴史の教科書では岩倉使節団でおなじみですね。

彼は、維新十傑に唯一の公家として選ばれていますが、江戸時代幕末期にどのような役割を担っていたのかはあまり知られていません。

ここでは岩倉具視の人物像や江戸時代における動向を中心に解説し、彼の子孫についても触れてみたいと思います。

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岩倉具視とはどんな人物だったのか?


まずは岩倉具視がどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。

岩倉具視は1825年、中納言を努めた堀河康親の第二子と生まれ、幼名は周丸と言いました。

その強面の容貌から幼少期は「岩吉」「山賊の親分」と呼ばれ、肝が据わった豪傑肌の人物だったと言われています。
曖昧で遠回しな表現が「公家」としての素養の一つとも言えた公家社会において、岩倉具視ははっきりと物言うタイプで、口げんかも得意だったと言われています。

ペリーが来日した1853年、関白で五摂家の一人である鷹司政通に歌道を学び始めますが、これが下級公家だった岩倉具視の大きな転機となります。
彼は鷹司に朝廷改革を提案し、生まれで全てが決まってしまった公家社会に風穴を開けようと試みます。鷹司はこれを理解するも不発に終わりました。

※参照:藤原氏は現在まで続いてない?五摂家とは?

しかし日米修好通商条約の勅許を幕府が求めた時は、山賊の親分らしく88人の反対派公家をまとめあげ、勅許を出させないことに成功し、朝廷内での発言力を高めていきます。
その後、安政の大獄への対処を講じる中で幕府寄りの立ち位置にかわると、公武合体のため和宮降嫁を成立させます。が、長州藩や尊攘派の志士が朝廷で力を得ると佐幕派として糾弾され、失脚しました。

岩倉具視は蟄居時代に極貧生活を補うため、邸宅で賭場を開いて寺銭を取るなど、度胸に加え強かさも持ち合わせていた人物のようです。

1866年、孝明天皇が天然痘で崩御し、明治天皇が即位。岩倉は赦免され朝政に復帰します。ただ孝明天皇の死は突然だったため毒殺説が流れ、岩倉具視は容疑者として疑われました。
岩倉が死ぬ前日、明治天皇が彼を見舞った際に「親父のことは本当か?」と尋ねたというエピソードも残っていますが、毒殺説は岩倉を貶めるための嘘だというのが定説です。

新政府で最高位についた岩倉具視は、1871年に岩倉使節団を率い条約改正へと乗り出しますが、この欧米視察では大きなカルチャーショックを受け帰国。その後は鉄道整備が重要と国内強化に尽力しました。
そして1883年7月20日、日本人で初めてのがん告知を受けてから間もなく亡くなり、7月25日に日本初の国葬が執り行われました。享年59歳でした。

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岩倉具視の江戸時代の動向は?


そんな岩倉具視ですが、江戸時代にはどのような事をしていたのでしょうか?

岩倉具視が幕末の表舞台に名乗りを上げるのは、1858年にアメリカとの間で調印された日米修好通商条約を巡る「廷臣八十八卿列参事件」でした。勅許を求める幕府側に取り込まれた関白・九条尚忠(くじょうひさただ)の邸宅の前で抗議活動を行います。

岩倉らの行動は功を奏し、孝明天皇は勅許を拒絶するようになります。この結果、幕末政局における朝廷の存在感が高まる一方、幕府の老中である堀田正睦が職務を辞し、幕府の権威に傷がつきました。

1858年に安政の大獄が勃発すると、岩倉はこれが朝廷まで拡大する事や幕府との関係が悪化する事を恐れ、その過程で京都所司代の京都所司代の酒井忠義と意気投合し、公武合体派に立ち位置が変わります。

そして「和宮降嫁」を推進し、天皇の勅使として江戸へ下向するまでに力をつけていきます。また、久世広周や安藤信正といった幕府の老中と面会を重ねる中で、江戸に流れていた「幕府が和宮を利用し廃帝を企んでいる」という噂を利用し、朝廷の権威を高める事も怠りませんでした。

しかしこの頃、尊王攘夷派の長州藩が朝廷に猛アタックを開始。孝明天皇が彼らを信頼するようになると、岩倉は尊攘派の公家から「四奸二嬪」の一人として弾劾されてしまいます。その結果、岩倉は1862年に失脚し、約5年間の蟄居生活を余儀なくされます。

この間、岩倉は薩摩の西郷隆盛や大久保利通、土佐の中岡慎太郎といった倒幕派の志士との知己を獲得し、立場を倒幕派へ変えています。
政治活動も少しずつ開始し、1867年の大政奉還の後には洛中帰住を許可されました。もともとは幕府寄りだった岩倉ですが、時代の変化と共に倒幕派へと自らの考えを変えている点が興味深いですね。

※参照:大久保利通が幕末や明治以後にしたことは?その業績について

岩倉具視の子孫は今もいるの?


ところで、岩倉具視の子孫の方は今でもいらっしゃるのでしょうか?

岩倉具視は正妻・後妻・お妾さん達との間に4男6女を授かりました。子孫の中には田安徳川家を継いだ徳川宗英氏や越前松平家の当主を継いだ松平宗紀氏をはじめ、社長や教授、政治家や芸能人など様々な分野で活躍している錚々たる顔ぶれがそろっています。

存命中の玄孫で有名なのは、強面な岩倉具視のイメージからは程遠い永遠の若大将、加山雄三氏です。加山氏の母で女優だった小桜葉子さんは岩倉の次男で、岩倉家の家督を継いだ具定の系列にあたります。加山氏の息子で俳優の山下徹大さん、娘で女優の梓真悠子さん、池端えみさんらが来孫として続いています。

同じく具定の系列で、加山雄三さんの母方の従弟にあたるのが音楽プロデューサー喜多嶋修氏です。その娘には、2013年に元夫で光GENJIのメンバーであった大沢樹生さんとのゴシップで騒がれた、元女優の喜多嶋舞氏がいらっしゃいます。

また六女・寛子の系列からは、民進党の衆議院議員である亀井亜紀子氏が来孫としていらっしゃいます。寛子はかつて久留米藩主を努めた有馬家の当主である有馬頼萬(ありまよりつむ)と結婚。その孫にあたる正子が、亜紀子氏の祖父でかつて津和野藩主を努めた亀井茲建(かめいこれたて)と結婚しているという流れになっています。

岩倉具視の子孫にあたる方はこれ以外にも沢山いらっしゃいます。2016年2月には、直系の子孫にあたる京都大学名誉教授である岩倉具忠氏が亡くなられた事も話題になりました。また、岩倉の6代目の子孫にあたる岩倉正和氏はM&Aの分野における代表的な弁護士として知られています。

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この記事のまとめ


岩倉具視がどんな人物だったのかを、江戸時代の動向や子孫の方を交えてご紹介しました。

公家と武士という違いはありますが、幕末にあって岩倉具視もまた、貧しい下級公家の出身ながら己の才覚で新しい時代を手繰り寄せた人物だと言えるでしょう。そんな彼の血が流れている子孫の方々が、今も様々な分野で活躍されているのも納得できるような気がしますね。

なお、以下の記事では岩倉具視を含めた「維新十傑」の詳細を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:維新の三傑の選定理由や坂本龍馬が漏れた原因は?維新の十傑も解説!