源平合戦の中で有名な一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いですが、どのような違いがあるのか気になりますよね。
まとめて覚えたい!という方も少なくないと思います。
この記事では、源義経が大活躍したことでも知られるこの3つの戦いの違いについてわかりやすく解説します。
一ノ谷の戦いをわかりやすく解説。「鵯越の逆落し」とは?
一ノ谷の戦いは1184年の3月、摂津国の福原・須磨(現在の兵庫県神戸市)で行われた戦いです。
源氏側の源義経が険しい坂から奇襲をかけた「鵯越の逆落し(ひよどりごえのさかおとし)」という出来事がとても有名ですね。
この戦いの前年、平家は木曽義仲軍の入京を阻止できず京都から撤退。讃岐国(今の香川県)にある屋島というところに本拠地を移します。その後、義仲と源頼朝での源氏間の争いもあり平家は徐々に勢力を挽回。京都復帰を目指し一ノ谷に陣を張ったのです。
※参照:源平合戦をわかりやすく解説。年表や登場する女性について!
この一ノ谷、平家が拠点を置く屋島を守る西の拠点であり、背後を山と海に囲まれた自然の要害の地にありました。平家としては、東西のわずかな入り口部分の兵を集結し守れば源氏軍を防ぐ事は可能だと考えていました。
1184年2月、源氏は一ノ谷を落とすべく京都を出発。頼朝の弟である源範頼は東から一ノ谷を攻め、義経は丹波国(今の京都府中部)から軍を進めます。この地で平資盛らを破った(三草山の戦い)義経は土肥実平に資盛を追わせる一方、自身は山道を進みます。そして安田義定に軍勢の多くを預け、わずか70騎で一ノ谷の背後に到着します。
戦いのイメージとしては以下のWikipediaの画像がわかりやすいですね。
※引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/一ノ谷の戦い
このとき、平家軍は兵力も充実しており源範頼、土肥実平、安田義定ら源氏の攻撃をよく防いだといわれています。戦の勝敗を分けたのは、義経軍による険しい坂から降りて来る奇襲でした。背後にある坂から軍が来るとは想定していなかった平家軍はこの義経の坂道からの突然の源氏軍の出現に大混乱します。これが世にいう「鵯越の逆落し(ひよどりごえのさかおとし)」です。
この鵯越の逆落としには諸説ありますが、いずれにしても逆落としによって平家軍は大混乱。範頼、実平、義定の軍勢も平家軍を破り、平家側の人々は屋島に逃れようとして溺死する人が大勢いたそうです。この戦いでは平家一門も多く亡くなり、屋島を守る重要拠点を失ってしまう痛い戦いとなりました。
屋島の戦いをわかりやすく解説。「扇の的」って何?
屋島の戦いは1185年3月、讃岐国の屋島(現在の香川県高松市)にある屋島で起こった戦いです。
一ノ谷で敗北した平家軍は、源氏と比較して有利であった水軍の力が有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で源氏を迎え討つつもりでいました。平家はあくまで得意な水軍の力を使い海から進んでくる源氏軍を討ち負かす作戦を立てていました。
戦いの指揮を任されたのは源義経。義経は摂津水軍などを味方につけて暴風雨の中で屋島に向けて出陣します。悪天候の中での出陣に、梶原景時ら周囲の諸将は反対しますが、敵の意表を突く事が大事と考えたのか義経は悪天候の中にも関わらず屋島に向け出陣します。悪天候の中で勝浦(現在の徳島県徳島市)という場所に到着した義経軍。勝浦から屋島に向けて進軍します。
屋島はまさに海に囲まれた島です。多くの船団を擁した平家は海からの攻撃には相当な準備が出来ていたと思われます。そこで義経は軍を2つに分けて周囲の陸地に放火します。周りが火に覆われた様子をみた平家軍は、源氏の大軍が、海ではなく陸から平家を攻撃し、平家を挟み撃ちしようとしていると考え、混乱状態になります。平家は、屋島から海に避難しようとします。
義経は、自分たちの軍勢がいかにも大軍であるがごとく浅瀬を渡る馬にも水しぶきをあげさせるなど多くの奇策を使います。諸説ありますが、屋島攻略時には源氏の軍勢はおよそ150騎程度だったそうです。正確な数字か否かは不明ですが、わずかな兵と義経の奇策で混乱する平家は源氏と比べて、平家軍を統率する棟梁が欠如していたのかもしれません。
この時、活躍したのが那須与一(なすのよいち)です。夕方の休戦状態の際、平家側から小舟が出てきて竿にかけられた扇を弓矢で射ろと挑発します。義経は那須与一にこれを射ろと命じます。与一は失敗したら源氏の名誉が失われる事なり、自害もやむ無しと覚悟しながら引き受け、見事大役を果たしました。このエピソードは「扇の的」と呼ばれ、平家物語の名シーンの1つでもあり絵にもなっています。
※引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/屋島の戦い
しばらくして海に逃げた平家は、引き返し戦う兵もいましたが結局、戦局を変えるほどには至りませんでした。梶原景時ら源氏側の大軍の上陸が迫った事もあり、平家は屋島を去る事となります、自慢の水軍を有効に活用したとは言い難い結果となりました。
※参照:屋島の戦いと志度合戦の重要人物を5名解説
壇ノ浦の戦いをわかりやすく解説。平家滅亡の原因とは?
壇ノ浦の戦いは1185年4月、長門国の壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた源平合戦最後の戦いです。
※参照:壇ノ浦の戦いで活躍した人物を5名まとめてみた
この時期、既に源氏は源範頼軍が九州地域を制圧し、平家は九州への退路を断たれたいわば後のない戦いです。勝利しかない状況で平家は安徳天皇を擁して、最後の戦いにむけ拠点としていた彦島(こちらも下関市)からわずかに離れた壇ノ浦に出陣します。
一方の源氏は義経と梶原景時が先陣争いで喧嘩。この景時との対立が後の義経没落の1つのきっかけとなっていきます。
平家としては、もともと海の戦いが得意です。このため少しでも有利な海戦に持ち込もうとして彦島を出て壇ノ浦に向かいます。一方の源氏は勝利を重ねるにつれ水軍も充実し、壇ノ浦開戦前には平家を上回る水軍力を有していたといわれています。しかし平家は元々西国を拠点としており海の戦いは慣れたもの。東国武士が中心である源氏軍よりは海上戦において熟練していました。そして戦いの際は、壇ノ浦の潮の流れを有効に利用して、戦いの序盤では源氏軍を圧倒する展開を見せたそうです。
しかし関門海峡は潮の流れが急激に変化する場所であり、正午ごろ始まった開戦時には潮の流れは平家に有利でしたが、やがて流れが反転し平家にとって船の操縦が難しい状況となるや戦局は一転します。徐々に潮の流れの変化と共に源氏が有利な状況になります。
※引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/壇ノ浦の戦い
源氏が有利になった原因としては潮の流れ以外にも、平家側の田口成良率いる水軍300艘が源氏に寝返った、当時タブー視されていた平家側の船の漕ぎ手への攻撃を義経が命じたといった説が存在します。
もともと平家軍は兵力が少ない上に、対岸の九州地区には源範頼の勢力範囲でもあり退路もありません。長期戦になると次第に兵の少なさが出てきてしまい、やがて総崩れ状態となります。
そして安徳天皇の入水を知るや、平家の総大将である平知盛以下の平家の主だった者たちも入水する者が続出。平家の主だった人たちは壇ノ浦の戦いで最後を遂げ、やがて平家は滅亡していきます。
まとめ
一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いの違いをわかりやすく解説しました。
3つの戦いをまとめると以下のようになります。
一ノ谷の戦い
1184年3月に現在の兵庫県神戸市で行われた。
「鵯越の逆落」という奇襲攻撃が有名。平家一門が多く死亡。
屋島の戦い
1185年3月に現在の香川県高松市で行われた。
那須与一の「扇の的」が有名。平家は得意の水軍を活かせず。
壇ノ浦の戦い
1185年4月に現在の山口県下関市で行われた。
源平合戦最後の戦い。潮の流れ等が原因で源氏が勝利したとされる。
都落ちした平家は、一ノ谷の戦いに始まり屋島そして、壇ノ浦の戦いで滅亡します。
この戦いで源義経は名声を上げますが、彼の行動を問題視した梶原景時、そして兄の頼朝と対立。鎌倉に入る事を許されず、奥州の藤原氏を頼り落ち延びていくのです。