賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた事で知られる柴田勝家。
武勇に優れた織田家の武将としてご存知な方も多いと想いますが、その人物像がどのようなものだったのかを知っている方はそう多くはない気がします。今回は、柴田勝家の人物像や織田信長の関係、そして気になる子孫の方の有無までご紹介します。
柴田勝家の人物像はどのようなものだったのか?
まずは柴田勝家の人物像を、簡単に見ていきましょう。
勝家と言えば、武勇に長けていた人物像が浮かぶ方も多いと思います。当時の日本を訪れていたルイス・フロイスは、勝家の事を「この時代で一番勇猛果敢な武将」「生涯を軍事に捧げた人物」と評しています。また、江戸時代に書かれた『翁草』という随筆において、勝家はその強さから「かかれ柴田」という呼び方をされています。勝家に対するイメージは昔からさほど変わっていないのかもしれません。
その一方で、勝家は領主としても有能だったと言われています。1577年頃、勝家は一向一揆勢力の力を削ぐ事を目的として秀吉に先駆けて「刀狩」を行っています。そして回収した武器を農具に改良して農民に与えたり、また船の鎖に転用したという記録が残っています。また信長上洛時には畿内の行政を担当したり、上杉家に対抗する事を目的として伊達家との外交を行う等、武勇だけでなく一国を治めるだけの器量を兼ね揃えた人物でした。
また、勝家には慈悲深い一面もありました。賤ヶ岳の戦いで敗北した後、自らの元を離れた家臣に対する不満を述べず、かつここまで従ってきた者には逃げ延びる事を許し、彼らの想いに報いる事も出来ない自らの力不足を悲しんだという記録が残されています。
実際、戦いに途中で勝手に退却して敗北のきっかけを作った前田利家の人質を勝家は戦後に送り返しています。ドラマでは新参者の秀吉を馬鹿にする役割をする事も多い勝家ですが、実際の人物像は非常に温かいものだったとい言えるでしょう。
柴田勝家と織田信長の関係は良好ではなかった?
柴田勝家と言えば、織田信長に忠実に仕え、信長亡き後の織田家にも忠実に仕えた人物というイメージが強いですよね。しかし実は、勝家と信長の関係は、当初は決して良いものではありませんでした。
1551年に信長の父、織田信秀が亡くなると、勝家は信長ではなくその弟、信行の家老としてまだ若い主君を支えます。そして勝家は、信行を織田家の後継者にすべく、一時期は信長を倒そうとしていた時期がありました。しかし1556年の稲生の戦いで信行が信長に敗れた時、勝家は信行と共に命を助けられます。
この時、勝家は信長の力量を認めると同時に、自分を遠ざけるようになった信行を見限る事を決意。信行が再度信長への謀反を企てた際はそれを信長に告げ、正式に信長の家臣と認められる事となったのです。
これによって勝家と信長の関係は良くなったのか…という訳ではなく、信長の尾張統一や桶狭間の戦い、美濃攻略において勝家はそこまで重用されていません。勝家が信長から重んじられるようになったのは上洛の時期からで、その後は野田・福島の戦いや姉川の戦い、比叡山焼き討ちや長篠の戦いといった様々な戦いに従軍しています。
こうした功績によって1576年、勝家は信長より北陸方面の総司令官に任命され、越前北ノ庄50万石を与えられています。この頃から、信長はかつて勝家と同じく信行に従った林秀貞や、筆頭家老でありながら手柄をあげていない佐久間信盛を追放するなど、家臣に対して厳しく当たるようになります。しかし勝家に対する信長の信頼は大きかったようで、1580年には勝家を、佐久間信盛のかわりの筆頭家老に任命している程です。
「柴田勝家の子孫」は勝家の血を引いていない!?
ところで、柴田勝家の子孫にあたる方は現在でもいるのでしょうか。
まず、柴田勝家には勝里と勝忠という庶子がいたと言われています。しかしこの2人は賤ヶ岳の戦いの後に処刑されているため、勝家の血を引く子孫の方はいないと考えられます。
また、勝家には柴田勝政や柴田勝豊、柴田勝敏や佐久間勝之といった養子がいました。このうち柴田勝政は勝家の姉の子供にあたる人物で、賤ヶ岳の戦いで敗死したと言われているのですが、その子供にあたる柴田勝重が江戸幕府に旗本として仕えており、柴田の家名を後世に伝える事に成功しています。
また柴田勝敏は賤ヶ岳の戦いの後に処刑、柴田勝豊は勝家と対立して秀吉に寝返るも、賤ヶ岳の戦いが始まる前に病気で亡くなっています。勝家の姉の子供にあたる佐久間勝之は、佐々成政の娘を妻にした事で成政の養子になるも、後に妻を離縁して佐久間姓に戻り、後に信濃国長沼藩主となりました。
なお、ネットで調べてみると、柴田勝家の子孫を名乗る方の書き込みが数件見られました。勝家は正室であるお市の方との間には子供を授かっておらず、普通に考えると「柴田勝家の子孫」という方は、勝家の養子である柴田勝政の子孫と考えるのが普通と考えていいと思います。
この記事のまとめ
柴田勝家の人物像や織田信長との関係、子孫の方の有無をご紹介しました。
勝家は信長の父、信秀の代から織田家に仕えており、当時から有力な武将と位置づけられていたと言われています。そんな勝家にとって織田家と主君にあたる信長は、自らの全てであったのかもしれませんね。
こうした忠義一徹な勝家の人物像がドラマで大きく取り上げられたら、今以上に勝家人気は高まるのでは・・・そう感じました。