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実はこの徳政令、鎌倉時代と室町時代とではその内容が微妙に異なっているのをご存じですか?

今回は、徳政令の内容や出した人物を時代ごとに簡単にご紹介すると共に、似たような法令である棄捐令との違いについても解説してみました。

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徳政令の内容を時代ごとに簡単に解説!


まずは徳政令の内容や出した人物を、時代ごとに簡単にご紹介します。

徳政令を一言で簡単に言うと「借金の帳消し」です。ただ鎌倉時代に出された徳政令と室町時代、そして戦国時代に出されたものとでは、その内容が微妙に異なってきます。

鎌倉時代の徳政令の内容


この時代の徳政令の内容は、幕府が御家人を救うために出したものでした。最初に徳政令を出したのは、鎌倉幕府9代執権・北条貞時です。
永仁7(1297)年に出されてことから、「永仁の徳政令」とよばれています。

永仁の徳政令を出すことになったのは、元寇が関係しています。元からの攻撃を防ぐために御家人たちはよく戦いましたが、幕府は与える恩賞がありません。本来、ほうびとしてあげるべき土地がないからです。

戦いのための費用をまかなうために、土地を質入れしたり売ったりしていた中小の御家人は、生活が苦しくなります。じつは、鎌倉時代には分割相続によって領地はどんどん細分化され、世代が下るにつれて御家人一人当たりの領地は小さくなっていました。
こうしたことを背景に、幕府は金融業者に対し「御家人から質入れしたり買い上げたりした土地を無償で返しなさい」と命じたのです。同時に御家人にも領地を質入れしたり、売ったりすることを禁じました。

しかし、永仁の徳政令の効果は一時的なものでした。金融業者は徳政令を恐れて御家人にお金を貸さなくなってしまい、御家人の生活は困窮していったのです。この事が、鎌倉幕府滅亡の一因になったとも言われています。

室町時代の徳政令の内容


一方の室町時代の徳政令の内容は、農民が幕府などの権力者に要求するものとしての色合いが強いものでした。もともとの徳政令は御家人を救うために幕府が出したものでしたが、この時代になると農民が幕府に徳政令を要求する「土一揆(つちいっき・どいっき)」が頻繁に起こるようになります。また、馬借(ばしゃく、馬を使って物資などを運ぶ業者)と呼ばれる人々も「馬借一揆」を起こしました。この時代の農民や馬借といった人々は金融業者から多額のお金を借りていたのです。

1428年(正長元年)には近江の馬借が起こした馬借一揆をきっかけに、近畿一円の農民が徳政令を求めた「正長の土一揆」が発生しました。この時、幕府は徳政令を出しませんでしたが、大和の守護職にあった興福寺は、大和国一国に限り徳政令を出したと記録に残っています。

また嘉吉元(1441)年にも、京や近江の農民が幕府に徳政令を求めた事で、「嘉吉の土一揆」が発生しました。これに対し、7代将軍足利義勝(義勝は当時9歳だったため、実際には管領の細川持之)は山城国に徳政令を出します。その結果、質に入れた品物・土地の返還、債務証書の破棄が定められると共に、この出来事は室町幕府の権威に大きな傷を付ける事となりました。

戦国時代の徳政令の内容


戦国時代になると、徳政令の内容は各地の戦国大名が領内を治める為の手段としての色合いが強くなります。1528年、武田信玄の父親にあたる武田信虎が徳政令を発布しているのですが、この信虎のケースの場合、上記の室町時代とは異なる土一揆は発生しておらず、その変わり信虎が治めていた甲斐国が災害に見舞われていた事が分かっています。災害に巻き込まれた農民救済策の一環だったとも考えられています。

また相模国の戦国大名・北条氏康も、領内に飢饉が発生した時に徳政令を発布しています。この時、氏康は嫡男の氏政に家督を譲っているのですが、この事から大名が家督を譲る時に徳政令を発布する事を「代初めの徳政」と呼ぶようになりました。

駿河国の大名、今川氏真も徳政令を発布しています。桶狭間の戦いで父、義元を失い領内が混乱する中、氏真は徳政令を発布する事によって領内における自らの求心力を高めようとしたと考えられています。もっとも、今川家の勢力下にあった国人は徳政令の発布を嫌がった者も少なくなかったようで、遠江国の井伊谷を治める井伊直虎は、氏真の徳政令発布の要求を2年間も拒絶しています。

※参照:井伊直虎の領主としての能力を検証。徳川家康との関係は?

徳政令を出した人物は誰?


改めて、徳政令を出した人物を簡単に見てみましょう。

まずは1297年の「永仁の徳政令」を出した鎌倉幕府の9代執権、北条貞時です。元寇で知られる北条時宗の嫡男にあたる人物ですが、その政治は有力な御家人で一門にあたる安達泰盛と、内管領の平頼綱の権力争い、北条氏の衰退など、数々の問題に向き合わざるを得ないものでした。

この鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇も「建武の徳政令」を発布しています。この法令は本来「借金の帳消し」を目的としたものではなかったのですが、後醍醐天皇が隠岐島へ流されていた時期に生じたお金のやり取りを無効にした事から、実質的に金銭のやり取りの効果を無効にする内容となったものでした。

また、室町幕府の8代将軍、足利義政にいたってはなんと13回も徳政令を発布しています。戦国時代になると上記の武田信虎や北条氏康、今川氏真といった各地の大名が徳政令を発布した他、近江国の戦国大名である六角義賢も徳政令を発布しています。1562年に出されたこの徳政令は、六角義賢が三好家との戦いに勝利した事をきっかけに出されたものでした。六角義賢は徳政令を発布して山城国を勢力下に治めている事からも、この時期の徳政令が大名による領国を統治する1つのツールになっている事が分かりますね。

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徳政令と棄捐令の内容の違いとは?


ところで、江戸時代には「棄捐令(きえんれい)」と呼ばれる法令が発布されています。徳政令との違いはどこにあるのか、その内容を簡単にご紹介します。

棄捐令が出されたのは1789年、出した人物は「寛政の改革」を行った事で知られる江戸幕府の老中・松平定信です。当時老中であった定信は「寛政の改革」の一貫として、この「棄捐令」を発布する事になりました。

このころ、幕府直属の家臣である旗本や御家人は、「札差」(旗本や御家人の蔵米を売ってお金に変える代行業者。旗本や御家人はお米で俸禄をもらい、お金に変えて生活していた)に借金をし、生活に困窮していました。そこで、定信は借金について、5年以上前の者は帳消し、5年以内の者は利子を下げるよう札差に命じたのです。
棄捐令直後は、借金が帳消しになったと喜んだ旗本や御家人でしたが、札差が彼らにお金を貸さなくなると、やはり生活に困るようになったと言われています。

つまり棄捐令は、鎌倉幕府が出した「永仁の徳政令」と、救済の対象が幕府直属の武士であるという点において似ていると言えるでしょう。また1843年の「天保の改革」や1862年の「文久の改革」の一貫として棄捐令が出されている他、佐賀藩や加賀藩といった諸藩でもこの法令は出されています。

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この記事のまとめ


このページでは徳政令の内容を簡単に解説すると共に、出した人物や棄捐令との違いについてもご紹介しました。

時代によってその内容が変わっていく徳政令ですが、棄捐令との違いがあまり無いのが興味深いですね。時代が変わっても、困窮する人々と彼らにお金を貸す金融業者の存在という構図は不変のものなのでしょうか。現代日本にも通じるこうした枠組みを学ぶ事こそが、日本史を学ぶ大きな意義なのではないかと改めて感じました。

なお、以下の記事の後半では徳政令を最初に出した北条貞時について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:北条時宗の家族について。子供の北条貞時が行った政治とは?