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勝海舟と言えば、幕末の人物で、大河ドラマや小説に多く登場してますので、名前くらいは知っているという方も多いかもしれません。

そんな彼ですが、その家族の事はあまり知られていない気もします。
そこでこのページでは、勝海舟の父親である勝小吉をはじめ、海舟の子供たち、そしてその子孫の方々をご紹介します。

彼らを知ることで、勝海舟という人物の面白みがさらに広がるかもしれませんよ。
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勝海舟の父親、勝小吉ってどんな人?


まずは勝海舟の父親、勝小吉(かつこきち)がどんな人だったのかご紹介します。

勝小吉は、もともとは男谷(おたに)平蔵という旗本の三男でした。1802年に産まれた小吉は幼少の頃に、同じ旗本の勝家に養子に出されましたが、どうにもおとなしい性格の人物ではなかったらしく、学問を好まずに喧嘩ばかりをしていたようです。

その小吉は14歳のころに突然、家出をします。一路、上方を目指しますが、途中で盗賊に襲われて無一文になり、乞食をしながらなんとか伊勢参りを果たしますが、当時の人の極端さというか純粋さには驚きを隠せません。そんな途上で、小吉は野宿をしている時に崖から落ちて大けがをしてしまいます。睾丸の片方をつぶしてしまうという、男性の方が聞けば思わず顔をしかめたくなるような大惨事です。実はこんなところに、勝小吉と海舟の親子の共通点があります。海舟もまた、幼少のころに野犬に睾丸の片方を食いちぎられているのです。妙な絆です。

さて、小吉はその後、江戸へ帰ります。所帯を持ったりしておとなしくしているかに思えましたが、7年後に再び出奔。このときは借金で首が回らなかったことが出奔の理由だったらしく、路銀がないため、御三家の家来だと嘘で宿屋などをだまして遠州の知り合いのところまで行ったそうです。そんなことまでして江戸から離れられた小吉でしたが、甥の男谷信友に説得されて江戸へ戻ります。

ところで、この男谷信友は「幕末の剣聖」と呼ばれた人物でしたが、小吉はこの剣聖に剣で勝ったことがあるようです。ですが、剣の腕があっても人望がなかったためか、そちらの道で大成はしませんでした。江戸にもどった小吉はいよいよ父親にあきれられて、座敷牢に入れられてしまいます。1822年の頃です。その翌年3月に子の麟太郎、のちの海舟が生まれます。

子供が生まれても、小吉のダメ人間ぶりは変わらず、わずか4歳の麟太郎に勝家の家督を継がせたいと言い放つ始末でした。さすがに叶うはずもなく、せめて役職を得ようと活動しますが、日ごろの行いが悪いせいで、結局、生涯を無役で終えます。その後37歳で隠居。念願だった、麟太郎への家督相続を果たします。痛風を患って鶯谷に居を構えて静穏な暮らしをしますが、49歳で死去。

これといった功績を遺した人物というわけではありませんが、破天荒で劇的な人生は江戸っ子風に言うならば粋というものだったかもしれません。

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勝海舟の子供はどんな人?


続いて、勝海舟の子供についても見ていきましょう。

勝海舟には男女合わせて10人の子供がいました。そのすべてが正妻、民子の子ではなく、妾を多く囲っていたそうです。

このうち長男で民子との子供である勝小鹿(かつころく)は父と同じように海軍への道を歩みますが、なにぶん体が弱かったようで、アメリカ留学を経て帰国後に海軍大尉まで昇進しますが、すぐに病気によって休職しています。1844年に斉藤氏という士族の妹と結婚しますが、1891年には死去してしまいます。

その後、勝海舟は小鹿の遺した長女(つまり自身の孫娘)、伊予子に、徳川慶喜の十男の精(くわし)を婿どりさせて家督を継がそうとします。実際に勝海舟の死後に勝家の家督を継いだのは精なので、系譜上は精が海舟の子供と言えるでしょう。この精は、オリエンタル写真工業や浅野セメントの役員を努めるなど、実業家として大成し名を残しました。しかし女遊びは勝海舟と同様と派手で、1932年の最後は妾と共に心中をはかったものだったと言われています。
精の死後、勝家は彼の長男である芳孝(よしたか)が継承しました。

また、三男の梶梅太郎は米国人女性、クララと結婚しています。このクララは現在の一橋大学の講師として知られるウィリアム・ホイットニーの娘にあたる人物で、二人の間には6人の子供が産まれました。しかし、どうやらこの梅太郎は今でいう「ダメンズ」だったようで、一家の生活は全てクララの働きによるものだったとか。勝海舟が1899年になくなると、その翌年にはクララは夫に愛想を尽かし、子供を連れてアメリカへ帰ってしまいました。

他にも、三女の逸子は、勝と共に専修大学の創設に力を尽くした目賀田種太郎(めがたたねたろう)に嫁いだ事でも知られています。

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勝海舟の子孫は今もいるのか?


それでは、勝海舟の子孫は今もいるのでしょうか?

現在、「勝海舟の会」と呼ばれる親睦会が、その子孫の方によって運営されており、勝海舟の曾孫、勝康氏が名誉会長を務められています。この勝康氏は勝小鹿の次女・知代の五男にあたる方で、系統上は先述した芳孝のいとこに当たります。
「勝海舟の会」ですが、他にも玄孫の方が名誉顧問を努めておられます。そのうちの1人である筧治氏は2015年に『五代目海舟が行く 慶喜と海舟の血を受け継いだボートデザイナーの自伝』という書籍を出版し、話題を集めました。


また、三男の梅太郎の子孫の方もご存命で、2015年には妻、クララの縁を頼って一橋大学を訪れたりもしています。

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この他にも、かつて財務次官を務めた勝栄二郎氏が、一時期「勝海舟の子孫なのでは?」と言われた事がありましたが、ご本人はインタビューの中で海舟との関わりはないと述べられています。「勝」という名字を見つけたら、「この人は勝海舟の子孫なんじゃないか?」という事には、必ずしもならないという事ですね。

この記事のまとめ


このページでは「勝海舟の家族」というテーマで、勝海舟の父親の勝小吉、海舟の子供たち、そしてその子孫についてご紹介しました。

勝海舟と言えば、平和裏に江戸幕府終焉へ導いた戦略家というよりも、まさにチャキチャキの江戸っ子といった、竹を割ったような豪放磊落な印象を受ける方も多いと思います。その原点は、父親の小吉にあったのではないかと感じました。

そして海舟の子供たちを見ていると、父親の戦略家としての面ではなく、その江戸っ子気質を受け継いだのかな?という気がします。