源平合戦を扱ったドラマや小説で、「屋島の戦い」と「志度合戦」という戦の名前を聞いたことありませんか?「名前は聞いたことあるけど、どんな戦いで誰が活躍したんだっけ?」っていう方、いらっしゃるのでは?
屋島の戦いと志度合戦は、平氏が源氏に敗れた「壇ノ浦の戦い」の直前の戦いです。
この戦いが行われたのは、讃岐うどんで有名な香川県の屋島と志度地域なんですよ。
源氏に追い込まれた平氏は、一ノ谷の戦いの後に海に囲まれた屋島に逃げます。しかし、逃げた先の屋島も落とされ、さらに志度寺に逃げ、ここでも戦いが始まります。この一連の戦いが、屋島の戦いと志度合戦です。
舞台が分かったところで、今回は2つの合戦で活躍した重要人物5名を解説していきますね!
独自の発想で功績をあげた源義経
屋島の戦いと志度合戦で外せない人物が、源義経です。知っている方は多いのではないでしょうか?義経は、独自の発想で功績をあげるんですよ!
まず義経は、屋島に逃げた平氏を攻めるために、熊野水軍を始めとした水軍を味方につけちゃいます。平氏は水軍を持っていましたが、源氏側は水軍を持っていなかったので屋島を攻めることができなかったんです。水軍がなければ味方につけようっていう考えなんて、なかなか思いつきませんよね。
次に義経は、少ない兵を引き連れ、猛スピードで平氏がいる屋島の近くまで到着しちゃうんです!京から屋島までは、通常数日かかると言われていました。しかも出陣の日は悪天候で船を出すのも困難、集まった兵も僅か5艘と150騎で最悪な状況。そんな厳しい状況の中、義経は屋島攻めを強行し、僅か数時間で敵陣のすぐ近くまで到着してしまいます。
でも、兵の数少ないし大丈夫なの?って思いませんか?
ここで義経が実行したのが、民家に火をつけて多くの兵がいるように見せかける作戦です。
結果、屋島で奇襲を受けた平氏は志度寺へ逃げ、志度合戦が始まります。
義経は、志度合戦で、さらに少ない兵を連れて敵陣に乗り込むのですが、ここでも義経の戦略が発動するんです。義経は、郎党の伊勢義盛に、平氏側の田口教能を呼ぶように命じます。その結果、田口教能を自分の軍に加えてしまいます!これら2つの合戦での義経の活躍が、後の平氏滅亡に繋がっていくんです。
義経の発想って、きっと誰も思いつかなかったんじゃないでしょうか・・。
※参照:源義経ってどんな人?年表や源頼朝、弁慶との関係について!
義経の忠臣 佐藤継信の最後
「佐藤継信って誰?」って思う方はいらっしゃるんじゃないしょうか?
実はこの人物は義経の家臣で、義経の命の恩人なんですよ!
義経は屋島の戦いで、平清盛の甥で強弓精兵と呼ばれた平教経に狙われてしまいます。その危機を救ったのが佐藤継信です。主君である義経の代わりに、継信が教経の矢に射られてしまうんです。
その後、教経の童である菊王丸が継信の首を取ろうとしますが、継信の弟の佐藤信忠に射抜かれ、継信の首を取る前に死んでしまうんです。義経は、継信との最後の言葉を交わした後、静かに泣いたんだとか。
一方菊王丸は、この時18歳であり、若者であった菊王丸の死亡をきっかけに教経は戦いを辞めてしまったそうです。
継信と菊王丸の行動は主君への忠誠心、義経と教経の行動は部下に対する信頼、それぞれいい主従関係を表すものだったと思います。
現在でも屋島には、継信と菊王丸のお墓があるんですよ。歴史を感じますよね。
「扇の的」那須与一の逸話
平家物語の有名な場面で知られる「扇の的」の話は知っていますか?
「平家の美女が乗った船の穂先についている扇を源氏側の武士が射った」という、『平家物語』で有名な場面です!この扇の的を射抜いたのが、那須与一という人物なんですよ。
でもなぜ与一が射抜いたのでしょうか?義経が良かったんじゃない?という人もいるのでは?実は、与一も自分から声を上げた訳ではないんです。
義経は最初、畠山重忠に扇を射るよう命じましたが、重忠は辞退します。代わりに重忠は、那須十郎という人物を推薦しました。しかし、十郎も負傷などを理由に辞退し、その代わり弟の与一を推薦したんです!与一はどんな気持ちだったんでしょうかね。主君、先輩、兄に命令されて、外すことが出来ないため、ものすごいプレッシャーだったと思います。
与一は馬に乗ったまま海に入り、「南無八幡大菩薩」と唱えながら弓を構えます。
以下の絵画は、「平家物語絵巻」に掲載された与一が矢を放つ前を描いています。
※引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/那須与一
もし扇に矢が当たらなければ切腹しようと考えていたのだとか。幸いにも与一が放った矢は、見事扇に的中し、源氏と平氏に称賛されたそうです。
しかも、現代に語り継がれていると与一が知ったら、とても喜ぶのではないでしょうか?
敵の調略に成功!伊勢義盛
義経の解説の際、伊勢義盛と言う人物が出てきましたよね。
義経に、敵軍の田口教能を連れてこいと命じられた、義経の郎党です!
でも、伊勢義盛ってどうやって田口教能を連れてくることに成功したんでしょうか?イマイチ分からないですよね…。
『平家物語』によれば、義経に命じられた義盛は、白装束にした16騎と一緒に敵の田口教能の陣に行ったそうです。そして義盛は教能に、「あなたの父は源氏の捕虜になっているのに、あなたを心配しているんですよ」などの嘘をつきます。義盛の言葉を聞いた教能は、戦意を失ってしまいます。そして、自身の兵と共に義経の軍に加わり、源氏に寝返りました。
敵の家族を利用した嘘をつける精神を持った伊勢義盛だから、義経は起用したのかもしれません。実はこれも、義経の戦略の1つだったんですね。
梶原景時が「六日の菖蒲」と笑われた理由
屋島の戦いに梶原景時って参加してたっけ?ってって思う方、多いのではないでしょうか?
この戦いにおいて、景時はちょっと可哀想な人物なんですよ…。
景時は、義経の兄である源頼朝の家臣で、屋島攻めの時に義経と対立してしまいます。
景時は、「戦中、もしもに備えて船の後ろにも櫓を装備し、いつでも逃げられるようにしましょう。」と提案しますが、義経は却下しました。これが「逆櫓論争」です。
しかも屋島攻めで、義経が厳しい状況下で攻撃を仕掛け、平氏を志度に追いやったため、景時が到着した時には、平氏軍は屋島から逃げてしまっていました。
これを知った仲間たちに、景時は「六日の菖蒲(時期に遅れてしまい、役に立たないこと」言われ、笑われたとか。
義経に先を越されてしまった挙句、敵に逃げられ、仲間達から笑われるなんて屈辱ですよね。
でも景時の提案は、義経の安全を守るためのものだったのかもしれません。
まとめ
屋島の戦いと志度合戦の重要人物についてご紹介しました。
まとめると、以下にようになります。
・源義経は、少ない数の兵ながらも猛スピードで平氏を追撃した。
・佐藤継信は、義経の身代わりになって討ち死にする忠誠心の強い義経の家臣。
・那須与一は、平家物語の「扇の的」の物語に出てくる人物。
・伊勢義盛は、平氏の一部を言葉で源氏側に寝返らせた人。
・梶原景時は、屋島の戦い前に義経のと対立し、「六日の菖蒲」と笑われてしまう。
この5つを頭に入れておけば、大河ドラマなどで2つの戦が登場しても、なんとなく理解しやすくないですか?
なお、以下の記事では屋島の戦いとよくセットで出てくる一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いをまとめて解説しているので、宜しければご覧になってみて下さい。
※参照:一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いの違いをわかりやすく解説!