平安時代の末期、まだ地位の低い存在だった武士出身でありながら日本頂点にたった平清盛ですが、具体的に何をした人物だったのでしょうか。
平家物語のイメージから、「おごり高ぶった独裁者」というイメージを持たれている側面もありますよね。

今回は「平清盛がしたこと」というテーマで、悪役のイメージを与えられ続けてきた清盛がしたことを優しく簡単にご紹介していきます。

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平清盛がしたこと その1 保元の乱で武名を上げる


平清盛が歴史の表舞台に立つきっかけとなったのは、1156年に勃発した「保元の乱」でした。
この戦いを簡単に言うと、後白河天皇と崇徳上皇の対立に、摂関家の藤原忠通・頼長兄弟の確執が混ざりあったものとなります。そして実際の戦争を行ったのは源氏や平氏などの武士たちでした。

清盛は後白河天皇、崇徳上皇どちらにも誼がありましたが、最終的には後白河天皇側につきます。ちなみに清盛の叔父・忠正は崇徳上皇側についています。
ちなみに源氏も一族で敵味方に分かれて戦いました。源頼朝の父親として知られる義朝は後白河天皇側に、頼朝の祖父である為義は崇徳上皇側についています。

保元の乱は、後白河天皇側の夜襲から始まりました。清盛も300騎を率いて参戦しています。崇徳上皇側は兵の数が少なすぎ、わずか1日で勝敗は決してしまいます。
そして保元の乱の戦後処理は、100年ぶりに死刑制度が復活したほどの過酷なものになりました。崇徳上皇側に加担した人の斬首刑です。それも親族同士で首をはねるという残酷な命令がでました。清盛も叔父である忠正を処刑しています。

※参照:源平合戦をわかりやすく解説。年表や登場する女性について!

平清盛がしたこと その2 平治の乱で源義朝に勝利する


保元の乱の3年後には「平治の乱」が勃発します。
この戦いは平氏のトップである清盛と源氏のトップである源義朝の戦いでもあり、これに勝利した事で平氏政権が築かれる事となります。

保元の乱後、権力を握ったのは後白河天皇の側近である信西(しんぜい)という僧侶でした。清盛は信西とタックを組んで自身の勢力拡大をはかります。
これに不満なのは源義朝と、義朝の背後にいた藤原信頼という人物でした。1159年12月、清盛は和歌山県の熊野に出かけたスキをついて兵を挙げ、信西を殺して政治の実権を握ります。同時に後白河上皇(この時息子の二条天皇に天皇の位を譲って上皇になっていました)と二条天皇の身柄の確保にも成功します。

京都に戻ってきた清盛は、二条天皇や後白河上皇に近い公家と協力して二人を自身の元へ移動することに成功。これによって平治の乱が勃発します。天皇や上皇を保護しており、兵力も多かった事から清盛は義朝に勝利。義朝は関東へ逃れますが尾張国(今の愛知県)で家来によって殺されてしまいます。信頼は後白河上皇に命乞いをしますが許されず、打首になりました。

こうした功績によって清盛は後白河上皇、二条天皇の両方に顔が利く存在となり、その影響力は高まっていきます。清盛の一族の多くも官職をもらい、平氏政権が成立していきます。

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平清盛がしたこと その3 武士ではじめて太政大臣になる


平治の乱で勝利した清盛は、天皇家や摂関家へより接近しようとします。
平治の乱後、もはや平氏なしでは政治運営が成り立たなくなり、貴族の間では清盛はひっぱりだこだったのです。

まず清盛の奥さんの時子は二条天皇の乳母であったこともあり、清盛は天皇の後見役として中納言に就任します。一方、後白河上皇への気配りも忘れず、自身の妹である滋子を上皇に嫁がせ、自らの政治的基盤を確固たるものとしました。この二人の間には後の高倉天皇が産まれています。
他には、関白の藤原基実に娘の盛子を嫁がせており、藤原氏への配慮も忘れません。

1167年、清盛は武士としてはじめて太政大臣になります…が、わずか3ヶ月で辞任しています。
翌年には病気に倒れてしまい出家。長男の重盛を後継者とし政治の舞台からは退きます。

※参照:摂政、関白、太閤、太政大臣、征夷大将軍の違いをわかりやすく解説!

平清盛がしたこと その4 厳島神社を整備する


幸いにも清盛の病気は回復します。
そして清盛は福原(現在の兵庫県神戸市)に別荘を建て、厳島神社を整備したり、瀬戸内海の航路を整え始めます。

厳島神社に関してですが、清盛はこの神社を厚く信仰していました。平家物語には清盛がある夜、夢を見た際、僧侶から「厳島神社をきれいに造営すれば必ず位階を極めるだろう」といったお告げを受けたエピソードが記されています。このお告げに従って、清盛は厳島神社に多額の援助を行い、1168年には今日にも見れる海城社殿が造営されました。

1174年には、後白河法皇が厳島神社を訪れています。当時、天皇(院)が海(瀬戸内海)を通って旅行するのは前例がない出来事でしたが、こうした事績を残せるほど清盛の力は強かったと言えるでしょう。

平清盛がしたこと その5 日宋貿易を推進する


清盛が瀬戸内海の航路を整えた背景には、日宋貿易を推進したい彼の想いがありました。日宋貿易とは、10世紀から13世紀にかけて行われてきた日本と中国の貿易のことです。当時の中国は「宋」という国でした。

日宋貿易はもともと清盛の父・忠盛も行っており、忠盛はこの貿易から得た財を朝廷に献上して地位を築いてきた経緯があります。清盛も父・忠盛以上に宋との貿易を活発に行いました。

まずは宋から大きな船が入れるように港づくりを始め、今の広島県呉市と倉橋島との間に音戸の瀬戸(おんどのせと)を開き、兵庫港の原型である大輪田泊(おおわだのとまり)を修築しました。特に大輪田泊は京都にも近く、これによって貿易はいっそう盛んになりました。宋からはさまざまな物が輸入されており、特に皿や椀などの陶磁器や宋銭(中国のお金)が入ってきました。日本がお金を使って品物を取引したのはこれが最初だと言われています。

こうした取り組みによって、平氏は繁栄を極めました。
清盛の一族である平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と述べたのもこの時期です。

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平清盛がしたこと その6 治承3年の政変を起こし後白河法皇を幽閉する


清盛の栄華は続いていましたが、1177年には後白河法皇の側近である藤原成親(なりちか)らが平家打倒をはかった「鹿ケ谷の陰謀」が起きてしまいました。この陰謀は鎮圧されますが、これをきっかけに清盛と後白河法皇は対立するようになります。前年に法皇に嫁いでいた清盛の妹、滋子が亡くなったていた事も二人の関係悪化に拍車をかけました。

その後、1179年6月に清盛の娘盛子が亡くなってしまいます。実はこの盛子の死が平家にとって大きな火種になってしまいます。盛子は藤原長者の近衛基実(もとざね)の奥さんでしたので基実が亡くなった後、残された多くの財産を盛子が管理していました。盛子が亡くなった後、当然その財産は後継者の基通(もとみち)か、盛子が母親代わりをしていた高倉天皇にいくはずでしたが、後白河法皇は関白・松殿基房(まつどのもとふさ)と共謀して盛子が持っていた財産を没収してしまうのです。

さらに7月、今度は長男の重盛までもが亡くなってしまいます。悲しみに暮れる清盛に追い打ちをかけるように、後白河法皇は重盛の所領を全て没収!さすがに清盛もブチ切れたのか、11月にクーデターを起こします。この出来事は「治承3年の政変」と言われています。

これに驚いた後白河法皇は和解しようとしますが、清盛は聞き入れず法王は幽閉。関白・松殿基房などの平家を快く思わない貴族の役職も剥奪してしまい、これによって後白河院政は終わりを告げるのです。

平清盛がしたこと その7 安徳天皇の外祖父となる


「治承3年の政変」後、清盛は福原に引っ込み、政治は高倉天皇(妻は清盛の娘・徳子)や近衛基通(養母は清盛の娘・盛子)、清盛の後継者となった平宗盛が行いますが、3人とも政治を行うは力不足で、結局清盛が政治を行う事となります。

1180年、高倉天皇は息子で3歳になったばかりの安徳天皇に位を譲りました。安徳天皇の母は清盛の娘であり、これによって清盛は天皇のおじいちゃんとして政治を思うように動かせるようになったのです。

しかし、後白河法皇を幽閉したことは全国の武士の反感を買う事となりました。法皇の息子である以仁王の挙兵を皮切りに、園城寺や興福寺などの寺社勢力、そして伊豆にいた源頼朝が兵を挙げ、清盛はその対応に迫られる事となるのです。

※参照:源頼朝の性格や家紋を解説。死因は暗殺だったのか?

平清盛がしたこと その8 興福寺を焼き討ちにする


以仁王の挙兵を鎮め、これに協力した園城寺を焼き討ちにした清盛ですが、頼朝の勢いは止まりません。そこで清盛は今の奈良県にある興福寺の討伐を決意。子供の平重衡(しげひら)を大将に興福寺に兵を進めます。

興福寺の僧兵との戦いに勝利した重衡は寺に火を放ちますが、この時たまたま強風が吹いており、火は興福寺はおろか東大寺をはじめとする奈良にある多くの寺院、そして民家にまでも燃え広がってしまうのです。この出来事は「南都焼討」と呼ばれますが、その被害は凄まじく、今の奈良県奈良市の大部分が消失した他、3000人以上がこの南都焼討によって亡くなったと言われています。1181年1月15日の出来事でした。

この2ヶ月後、清盛は高熱を患い64歳で亡くなります。人々は清盛の死と南都焼討を結びつけ「仏罰が下ったのだ」と言い合ったと言われています。

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この記事のまとめ


平清盛がしたこと」というテーマで、清盛が何をした人なのかを簡単に解説しました。
この記事では、代表的な事柄として以下の8点を紹介しています。

・保元の乱で後白河天皇側につく(1156年)
・平治の乱で源義朝に勝利する(1159年)
・武士として初の太政大臣に就任する(1167年)
・厳島神社を整備し社殿を造営する(1168年)
・日宋貿易を推進する(1166年ごろ〜)
・治承3年の政変によって後白河法皇を幽閉する(1179年)
・安徳天皇の外祖父となる(1180年)
・興福寺を焼き討ちにする(1181年)

清盛の死後、平家は3男の宗盛が後継者となりますが、頼朝やその弟の義経の勢いは止まらず、平家は源氏との戦いに負け続けます。そして1185年の壇ノ浦の戦いで、清盛の奥さんの時子はわずか7歳の安徳天皇を抱いて海に沈み、平家は滅亡しました。

鎌倉時代に成立した軍記物語『平家物語』には、清盛がしたことや清盛死後の平家の様子が描かれています。平家や清盛って面白いなと思ったら、一度読んでみるのもいいかもしれませんね。