江戸時代後期、幕末期に日本を率いた人物を多く排出した藩のひとつに薩摩藩があります。
この薩摩藩を率い、名君としても名高いのが薩摩藩第11代藩主、島津斉彬です。
その島津斉彬は、どんな家族に囲まれ、どんな環境を生きてきたのでしょうか。
今回は、島津斉彬の父や妻、子供たちについてご紹介します。
斉彬と対立した父、島津斉興とは
島津斉彬の父は、その前の第10代藩主、島津斉興(しまづなりおき)です。父で9代藩主の斉宣(なりのぶ)の跡を継いで藩主となったものの、実権は祖父で8代藩主の重豪(しげひで)が握っていました。
島津重豪が亡くなるとようやく藩の政治を行えるようになり、祖父の代から重用されていた調所広郷(ずしょひろさと)を中心とて藩政改革を実施します。密貿易などを行った結果、藩の財政は好転したものの、幕府から追求されたため責任者の調所広郷が切腹するという事態も発生しています。
この斉興の時代に薩摩藩の財政が回復したことが、島津斉彬の政治にいい意味での影響を与えたという見方もあります。ただ、斉興は財政を重視した藩政を行っていたため、斉彬がお金を使った政治を行う事を恐れ、なかなか家督を譲らなかったと言われています。また、側室、お由羅の方との間に産まれた久光を跡継ぎにするというお家騒動も勃発しましたが、最終的には幕府の調停によって斉彬が家督を継ぐ事になりました。
しかし1858年に斉彬が亡くなると、斉興は再度藩の実権を握ります。斉彬が行った政策を中断し、西郷隆盛などの斉彬に近い人々を遠ざけるなどの施策を行いますが、その1年後、斉興も69歳で亡くなっています。
※参照:西郷隆盛の若い頃や両親について解説。島津斉彬との関係も!
島津斉彬の妻はどんな人?
ところで、島津斉彬の妻がどんな人だったのかご存知ですか?
島津斉彬には正室の他、4人の側室がいたと伝わっています。正室は一橋家から輿入れした恒姫で、斉彬の4歳年上の姉さん女房でした。2人の間には長男の菊三郎が生まれているものの、若くして亡くなっています。そしてこの息子の死は、当時斉彬派と家督争いをしていた斉彬の義母、お由羅の方の呪詛のせいだとして、斉彬派がお由羅の方を含む対立派閥を排斥しようという理由のひとつになったという説もあるのです。
また、4人の側室のうち3人は酒井忠藎の娘、田宮安知の娘、横瀬克己の娘という経歴しか分かっておらず、本名は知られていません。ただ斉彬との間に5人の子供を授かった伊集院須磨(いじゅういんすま)という女性は若い頃のから斉彬に仕え、彼に愛されたと言われています。
島津斉興の子供と養子について解説!
5名の女性を妻としていた斉彬でしたが、子供はどれ位いたのでしょうか。
実は斉彬の子供の多くは若くして亡くなってしまい、成人したのは伊集院須磨との間に産まれた3人の娘のみでした。彼女たちは全て、斉彬の弟で一時期家督争いをしていた久光の息子たちに嫁いでいます。
斉彬は男子に恵まれなかったため、久光の息子、島津忠義を養子として迎え入れました。藩の実権は久光が握っていたため、忠義が表立って政治を行う事はありませんでしたが、この事がかえって薩摩藩が全力で倒幕運動を行える状態になった要因になったとも言われています。
また、女性でも島津斉彬の養子になった人物がいます。それが、大河ドラマの題材にも選ばれた篤姫です。篤姫は島津斉彬の養子になった後、江戸幕府の第13代将軍、徳川家定の御台所となり、戊辰戦争では西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送ったりと、幕末期に徳川家を支える存在となりました。
今回のまとめ
「島津斉彬の家族」というテーマについてご紹介しました。
その内容をまとめると以下のようになります。
・斉彬の父は島津斉興で、斉彬とは政治方針の違いや家督相続などで対立した
・斉彬には側室を含め5人の妻がいた。その子供の多くは早世している
・男子に恵まれなかった斉彬は甥にあたる島津忠義を養子に迎えている
家督を継いだのが晩年であったとしても、島津斉彬の治めた薩摩藩は明治政府にも貢献する雄藩となりました。
これは、もちろん斉彬の手腕もあったと思いますが、父が築いた財産や、意志を継いだ養子といった、斉彬を取り巻く人々全ての力でもあったのではないでしょうか。
なお、以下の記事では薩摩藩の関係図をわかりやすく解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:島津家の家系図を簡単に解説。薩摩藩の歴代藩主は?