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新田義貞と言えば、足利尊氏や後醍醐天皇、楠木正成らと共に南北朝時代を代表する人物として知られています。ただ義貞がどんな人だったのかと聞かれると、そこまで詳しくない方も多いのではないでしょうか。このページでは新田義貞がどんな人だったのかを、足利尊氏との関係や子孫の有無も含めご紹介します。
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新田義貞ってどんな人?


まずは新田義貞はどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

1300年頃に産まれた義貞ですが、若い頃の動向はハッキリしていません。ただ当時の新田家は鎌倉幕府から冷遇されており、義貞がこれに不満を抱いていたのは確かだと言われています。
1331年に後醍醐天皇、そして楠木正成が挙兵すると義貞は正成と戦っていたようですが、やがて根拠地としていた新田荘(にったのしょう、今の群馬県太田市)に帰ってしまいました。

後醍醐天皇の挙兵を鎮圧したい鎌倉幕府は、義貞が治める新田荘の領民に重税を課してきます。これに不満を持った義貞は挙兵を決意。この時、足利尊氏の嫡男である千寿王(後の室町幕府2代将軍、足利義詮)も合流し、その軍勢は膨大な数(一説では20万以上とも)になったと言われています。結果として義貞は1333年、鎌倉を攻め落とす大手柄を立てています。

しかし、これだけ多くの軍勢が集まったのは義貞の力というよりも、千寿王ひいては足利尊氏の人望によるものが大きかったそうです。 当時の足利家が鎌倉将軍家にならぶ家柄であったのに対し、新田家はその足利氏に臣従する家柄でした。
しかし、後醍醐天皇による建武の新政に対して尊氏が挙兵すると、義貞は後醍醐天皇(南朝)側の事実上の総大将として尊氏と戦う事になります。しかし、従軍していた公家衆や奥州との北畠顕家との連携が採れなかった事もあり、尊氏の京都への進軍を許してしまいます。

その後、一時期は尊氏を九州へ追いやる事に成功するものの、この地で勢力を回復させた足利軍と再度戦う事になります。湊川の戦いでは楠木正成を失い、また後醍醐天皇も秘密裏に尊氏と和平交渉を行うなど、義貞がその存在感を示せる場面はありませんでした。勢力回復を目指す義貞は越前(今の福井県)に向かい北朝の勢力と戦いますが、最終的には1338年7月、藤島の戦いで矢を浴びて討ち死にします。まだ38歳の若さでした。

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宿命のライバル!?新田義貞と足利尊氏の関係とは?


同じ鎌倉時代後期〜南北朝時代を生きた新田義貞と足利尊氏。
この二人の関係を改めて見ていきましょう。

新田義貞と足利尊氏は、同じ河内源氏の血を引く名門出身という立ち位置にいた事で共通しています。しかし当時の新田家は足利家に従属していたという見方もあり、力の差は歴然であったそうです。また、自分たちが足利家より低く見られているという事が、義貞が天皇方に付いた理由だとも言われています。

建武政権が確立された後、義貞とその一族は所領と官位をもらいますが、尊氏とその一族はそれ以上の恩賞を貰っていました。しかし尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、義貞はその対抗馬として注目され、結果的に足利家との従属から脱却する事になります。

しかし、同時代の武将からの人気、支持は圧倒的に尊氏の方に分があったそうです。これについては同じ南朝方の楠木正成ですら同じ意見であったようで、義貞を成敗して尊氏と和睦せよという主張までなされています。

両者の関係をまとめると、いつも高い評価が与えられていた尊氏と、常にその下の位置にいた義貞という事でまとめられるでしょうか。ただもしも、足利家という重荷が無ければ、義貞は南朝方には付かず、武家の棟梁として後醍醐側と闘っていたのでは…なんて事も思ってしまいます。

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新田義貞の子孫は誰もが知るあの戦国武将だった?


それでは、新田義貞の子孫はその後、どうなったのでしょうか?

新田義貞には3人の男子がいましたが、長男の新田義顕は若くして戦死、次男の新田義興は側室の子でこちらも戦没したため、三男の新田義宗(よしむね)が後を継ぐ事になりますが、彼も1368年に同じく戦死しています。

この新田義宗には以下の6人の男子がいたと言われています。

・長男:新田貞方
・次男:岩松満純
・三男:横瀬貞氏
・四男:新田宗親
・五男:得川親季
・六男:脇屋義則
(新田義貞の弟、脇屋義助の孫という説も)

彼らのうち、長男の新田貞方は南北朝合一後に不満を抱いて挙兵するのですが、皮肉にも義貞の娘の孫(義貞のひ孫)にあたる千葉兼胤(かねたね)という武将に捕らえられ殺されています。その一方で、貞方の次男は北条家、三男は伊達家に仕えたという説も残されています。六男とされる脇屋義則も、南朝方の残党狩りに合い1404年に殺されたと言われています。

次男の岩松満純、三男の横瀬貞氏の家系は新田家発祥の地である上野国を根拠地とし、江戸時代を経て明治時代に新田氏に姓を戻しています。一方で義貞の嫡流は、四男の新田宗親が継承したと言われています。

また5男の得川親季ですが、江戸幕府の創設者、徳川家康がその祖先としている人物として知られています。実際に家康は岩松満純の子孫に新田家の系図について訪ねており、その血筋に拘りを見せている事が分かっています。新田義貞の子孫は徳川家康、という考え方には異説もあるのですが、これが本当であれば、新田家は義貞の死から265年後に、改めて武家の棟梁になったとも言えます。義貞の悲願は、家康にとって達成されたと言ってもいいのかもしれません。

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この記事のまとめ


このページでは新田義貞がどんな人だったのかを、足利尊氏との関係やその子孫の情報を交えながらご紹介しました。

新田義貞は足利尊氏と同様、源氏の血を引く名門の出でしたが、その家柄は常に尊氏の下に位置するものでした。そんな義貞ですが、尊氏との戦いでは南朝方の事実上の総大将として奮戦するも思うような結果は得られず、最終的には越前の地でその一生を終えています。

家柄という自らの力ではどうにもならないものに苦しみ、義貞は常に周囲の目を気にしたに違いありません。湊川の合戦を前に楠木正成に「恥をさらすより、例え負けても正々堂々戦いたい」と語った本当の気持ちはそのあたりにあるのではないかと考えられます。

※参照:楠木正成ってどんな人物?足利尊氏との関係や子孫はいるのか?