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南北朝時代で南朝方の一員として戦い、江戸時代以降は忠臣として今なお高い評価を受け続けている楠木正成ですが、具体的にはどんな人物だったのでしょうか?

同じ時代を生きた、北朝方足利尊氏との関係も気になる所ですね。

正成の子孫の有無も踏まえ、わかりやすくご紹介します。
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楠木正成はどんな人物だったのか?


まずは楠木正成がどんな人物だったのかを、簡単に見ていきましょう。

楠木正成は、その生まれにいくつかの説が存在します。河内の土豪、御家人、悪党(実力者)といった具合です。いずれの説にしろ、同じ時期に活躍した足利尊氏や新田義貞に比べれば、身分の低い得体の知れぬもの、というのが実際であったろうと思われます。

もともとは北条家の家臣だった正成ですが、やがて倒幕を推し進めていた後醍醐天皇に出会い、以降、その死の瞬間まで後醍醐天皇のために命を使い果たします。1331年に元弘の乱以降、正成は根拠地の河内国でゲリラ活動を展開。特に1332年の千早城の戦いでは100万人!(誇張みたいですが)の幕府軍をわずか1000人で迎え撃ち、これを撃破します。これを機に足利尊氏や新田義貞が挙兵し、鎌倉幕府は翌年滅亡します。

ただし、楠木正成と後醍醐天皇は一致した理想を共有していたわけではないと考えられます。世の中を自分の足で歩き生きている正成は、後醍醐天皇ほど純粋に天皇の権威を考えたわけではなく、むしろ、後醍醐天皇の理想をどうにか現実の世の中に合わせようと考えていたように思われます。

やがて後醍醐天皇の政治に不満を抱く武士と共に足利尊氏が挙兵すると、正成は足利軍に勝利し、尊氏を九州へ追いやる事に成功しています。しかし1336年、勢力を回復した尊氏が挙兵し京へ進軍します。正成はもし尊氏と戦うのであれば、守りにくい京都を一時退避して尊氏軍を入京させ、その上で包囲戦を展開すべきと主張しますが、後醍醐天皇ら建武政権の首脳にこの策は却下されてしまいました。

このため、正成は新田義貞の下で湊川の戦いで尊氏と激突します。しかし兵力の差は大きく、正成は弟の楠木正季と共に自害。享年は43歳だったと言われています。

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楠木正成と足利尊氏の関係はどのようなものだったのか?


楠木正成の生涯を振り返る際、同じ時期に活躍した足利尊氏との関係が気になっている方もいると思います。両者はどういった間柄だったのでしょうか。

まず出自ですが、尊氏が清和源氏の血を引く、いわば当時の上流階級の出だったのに対し、正成は河内の土豪、悪党といった「得体のしれぬ者」といった存在でした。少なくとも、この両者の間で個人的な付き合いがあったという事実はありません。

ただこの両者は、お互いの事を武将として認めていた節があります。1336年、九州へ落ちのびた尊氏が勢力を挽回した頃、正成は後醍醐天皇に対して、公家政治で世を収める無理を説き、尊氏と手を結んで武家政治により社会の安定を図るべきと諫めています。正成は後醍醐天皇の政治では混乱した社会を治める事は不可能だと考えており、これに変わる存在は尊氏を置いて他はないと思っていたようです。

一方の尊氏も、後醍醐天皇に忠義を尽くす正成の事は評価していたようです。当時の事を著した、足利家寄りの歴史書『梅松論』では、湊川の戦いでなくなった正成を尊氏が憐れみ、その首級を正成の家族に返している記載が見られます。ただ表向きは正成は「朝敵」という事にされました。北朝側にとっては、南朝に味方した楠木正成を認めるという事は(少なくとも表向きは)出来なかったのでしょう。

楠木正成の子孫はいるの?


そんな楠木正成ですが、その子孫は今もいるのでしょうか?

正成の死後、跡を継いだのは長男の楠木正行(まさつら)でした。正行も父と同様、楠木家を率いて北朝と戦いますが、1348年の四条畷の戦いで敗北、23歳の若さで自害したと言われています。

その跡を継いだのは正行の弟、楠木正儀(まさのり)でした。正儀は父や兄とは違い慎重な性格で、北朝に対して和睦する事を主張していましたが、これが拒否されると1369年、管領の細川頼之を頼る形で北朝へ降っています。ただその10年後、細川頼之の力に陰りが見えてくると南朝へ戻っており、父や兄、正行とはタイプの違う人物であった事が分かります。ちなみにこの楠木正儀の孫(もしくはひ孫)は、あの一休さんだったとも言われています。

また戦国時代になると、正成の子孫を名乗る楠木正虎(まさとら)という人物が現れ、正成の名誉回復運動を行いこれを成功させています。楠木正虎は織田信長や豊臣秀吉の書記官として働き、その子供には岡山藩の藩士になった楢村玄正(ならむらはるまさ)がいました。また、江戸時代に慶安の変を起こした由比正雪の師でもあった楠木正辰(まさたつ)がいたという説もあります。

現在も楠木正成の子孫は日本各地にいるようで、1935年には正成を祀る湊川神社に「楠木同族会」という正成の血を引く方々の親睦会が産まれています。

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この記事のまとめ


このページでは楠木正成がどんな人だったのかを、足利尊氏との関係や子孫の有無を交えながらご紹介しました。

正成と弟の正季、長男の正行は、南朝方への忠義が認められ、1872年に創建された湊川神社で神として祀られています。その一方で、湊川で尊氏軍に敗れ自害した正成本人は、どのような思いでその最後の瞬間を迎えたのかも気になる所です。

よく言われるように、尊氏も正成も、戦いたくて戦った訳ではありません。尊氏は自分につき従う武将たちの言い分を聞かねばならない立場にあり、正成は天皇の言いつけを守らねばならない立場にあっただけの事なのです。

なお、以下の記事では正成と同じく著名な南朝方の武将である新田義貞について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:新田義貞ってどんな人?足利尊氏との関係や子孫はいるのか?