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あまりの忙しさに師匠でさえも走りだすという師走。
新年を迎える慌ただしさの後にやってくる大晦日の夜は、その分厳かな気がします。

日本史に登場する歴史人物たちは、12月に何を見て、一体何を思ったのでしょうか。

そこで今回は、12月を詠んだ有名な俳句を5つ、その意味と共にご紹介します。

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浮世草子の巨匠・井原西鶴が詠んだ12月の俳句


大晦日 定めなき世の 定かな

江戸時代の元禄文化を代表する井原西鶴は、浮世草子『好色一代男』で一躍有名になりました。それまでの読み物とは異なり人の心を描いたことから「浮世草子」というジャンルを確立。

ですが、西鶴が小説家として活躍し出したのは40歳を過ぎてからで、それまでは実は俳人として有名でした。彼の作品はとても個性的だったので「阿蘭陀流」と呼ばれたそうです。
また、俳句の数を競う会が京都の三十三間堂で開かれたときには、なんと23,500句を飲まず食わずで、4秒に1句の速さで詠んだというエピソードも残されています。


では、西鶴が詠んだ12月の俳句の意味を見てみましょう。

決まりもなくなってきている世の中だけど、
大晦日は毎年決まった日にやってくる



近頃では、人は決まりも守らず、決まり自体もなくなってきている世の中になってしまったと憂いている一方で、一年の終わりの大晦日だけはいつも決まってやってくるという言葉に、大晦日ならではの忙しさや慌ただしさが想像されます。

最近では大晦日の過ごし方も様々になってきましたが、それでも除夜の鐘が響いてくると厳かな気持ちになりますよね。江戸の人も同じ思いで夜を迎えたのかなと思うと日本人であることをしみじみと感じました。

波乱万丈な人生!小林一茶が詠んだ12月の俳句


ともかくも あなたまかせの 年の暮

ほのぼのとした俳句が有名な小林一茶ですが、その人生は意外にも波乱万丈でした。継母とそりが合わず15歳で江戸に奉公に出て25歳で俳諧を学び始めた一茶。40歳ぐらいで父を亡くすと、継母らとの間で遺産相続争いがおこり12年後その半分を貰うことで決着します。

その後52歳で一度目の結婚を経て、その妻子の死後、二番目の妻と再婚しますが離婚。その後3度目の結婚。再び子供に恵まれますが、その子が生まれてくる前に一茶は亡くなったのでした。

実は一茶は、夜の営みの記録をつけていたのですが、これが驚きの絶倫ぶりです。最初の二度の結婚で奥さんが死んだり別れたりした理由は、一茶の連日の欲求が原因だとか。3人目の奥さんとも、死の直前まで励んでいたようです。


さて、気をとりなおして一茶が詠んだ12月の俳句の意味を見てみます。

あれこれと考えたところでどうにもならない。
すべてを仏さまにお任せするよりほかにない年の暮であるよ



浄土真宗の信者だった一茶。あなたまかせというのは、ここでは阿弥陀如来の救いにすべてを任せるといういみのことです。一茶の人生を見ても思うようにならないことばかりですが、そんな人生の苦しみや悲しみも、すべて阿弥陀様の救いに任せて念仏を唱えながら年の瀬を送ろう…。念仏者としての、意外な一茶の姿が垣間見れる一句です。

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赤穂浪士の討ち入りを詠んだ大高源吾による12月の俳句


山を裂く 刀も折れて 松の雪

赤穂浪士の一人である大高源吾は、大阪の呉服商番頭の脇屋新兵衛と名乗って吉良家をスパイした人物です。彼は俳句だけでなく、和歌や茶道などにも優れていたようです。俳人としては「子葉」と号し、宝井其角らとの交流がありました。

歌舞伎の忠臣蔵では、討ち入りの前日に両国で源吾と出会った其角が「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠みかけると」源吾が「あしたまたるる その宝船」と返し、討ち入りを暗示する有名なシーンもありますよね。
こちらはどうやらフィクションのようですが、最初の句は、討ち入り一週間ほど前に詠まれた辞世の句として知られています。


それでは、大高源吾が詠んだ12月の俳句の意味をご紹介します。

山を裂くほどの力を込めて戦った刀も折れてしまって、
松に積もった雪のように消えていこう



討ち入り直前に母と妻あてに書いた手紙の最後に書きつけられた句です。名文で、源吾の覚悟と母や妻に対する思いやりが伝わってきて、涙が込み上げてきます。全力を尽くして仇討を遂げる思いと、松の雪の儚さに表現される動と静、生と死の対比が心にしみてくる気がしいます。

正岡子規の交友関係がわかる12月をテーマにした俳句


漱石が来て 虚子が来て 大三十日

作者の正岡子規は、国語の教科書で取り上げられる歌が病床で詠んだ句が多いせいか、病弱で暗いイメージを持たれている方も少なくないと思います、その一方、若く元気だった頃は、野球にうちこんだり俳句に革命をおこしたりのバイタリティーある人でした。
ちなみに「野球」という言葉は、子規の幼名「升(のぼる)」にちなんで「野(の)球(ボール)」という雅号を名乗ったことからきたという説もあります。

徹底的な写実主義を唱えた子規は、大学予備門時代に夏目漱石と出会い、同郷の高浜虚子には大きな影響を与えました。この句は、二人が病床の子規を訪ねたときに詠まれたものです。


この俳句の意味ですが、詠んだそのままです。

大晦日に漱石と虚子が来てくれた


漱石が来て、虚子が来てという繰り返しに、大切な友人二人が自分に会いに来てくれたことへの喜びが感じられます。その日はちょうど大晦日。特別な日に仲間と過ごす嬉しさが伝わってきますね。

徹底的な写生にこだわるあまり余韻がなく感じられることもありますが、この作品からは彼の気持ちが溢れているような気がします。

※参照:正岡子規ってどんな人?年表や夏目漱石との関係とは?

俳句を3D感覚で表現した!?山口誓子が詠んだ12月の俳句


除夜の鐘 吾が身の奈落 より聞ゆ

山口誓子は昭和初期に活躍した俳人で、水原秋桜子・高野素十・阿波野青畝とともに「4S」時代を築いた事で知られています。高浜虚子に師事した誓子は、俳句に新素材を取り入れ、言葉や調べをメカニックに写生して非情かつ硬質な句風で若者を魅了しました。

こうした新興俳句を打ち立てる一方で、有季定型を守り、無季自由律とは一線を画しました。
自己の内面を簡潔明快に表現した句は、3Dで見ているような映像を私たちに与えてくれるような感じがします。


それでは、山口誓子が詠んだ12月の俳句の意味を見てみましょう。

除夜の鐘が、自分の身体の奥底から聞こえてくる


心の奥底を「吾が身の奈落」と表現するところが誓子ならではの表現と言えるでしょう。奈落の響きに、人の煩悩や業の深さが感じられますよね。そこから聞こえてくる除夜の鐘は、自身に深い反省を促しているのでしょうか。なんだかちょっと怖いような気もします。今年の除夜の鐘は、違った音に聴こえそうです。

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この記事のまとめ


今回は、一年の締めくくりである12月を詠んだ俳句を、有名な俳人や出来事にちなんで意味と共にご紹介してみました。十七音の短い言葉の中に、その人の考えや思い、人生までが託されているのが分かりますね。

読み手によってまた様々にも解釈できる俳句を通して見た12月。
年の瀬にあなたも一句いかがですか?

なお、以下の記事では松尾芭蕉が詠んだ有名な5つの俳句とその意味について解説しているので、こちらも是非一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:松尾芭蕉が詠んだ有名な俳句とその意味を5つ解説!