百人一首の1番目「秋の田のかりほの庵の…」を詠んだ天智天皇。
645年に起きた大化の改新で、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子のことです。
飛鳥時代、唐に負けない国づくりをめざし政治体制を整えた事で著名な人物です。
今回は、天智天皇がどんな人だったのかを、百人一首の和歌の内容や、あまり知られていない妻も含めてご紹介します。
天智天皇ってどんな人?水時計を作ったってホント?
まずは天智天皇がどんな人だったのか、簡単にご紹介します。
626年に舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の第二皇子として産まれた天智天皇。即位する前の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という名前の方が馴染みのある方も多いと思います。そして645年、19歳の時に天智天皇は中臣鎌足とともに蘇我蝦夷、入鹿親子を討ち、天皇中心の国家を建設するために「大化の改新」を行った事はとても有名ですね。ただ、天智天皇はこの時には即位しておらず、叔父にあたる孝徳天皇の皇太子として政治を行っていました。
654年に孝徳天皇が亡くなっても、中大兄皇子は即位せず、母がふたたび斉明天皇として即位しました。660年、朝鮮半島の百済が唐に滅ぼされ、日本(倭)に援護を求めてきます。中大兄皇子は斉明天皇とともに援護の指揮をとるために筑紫(九州北部)に滞在しますが、その最中に斉明天皇が亡くなります。663年に白村江の戦いで倭は唐・新羅軍に大敗。
その後667年、中大兄皇子はようやく天皇に即位しました。
白村江の戦いで唐の脅威を実感した天智天皇は各地に防御の城を築いたり、国防の任務に当たる兵士である防人(さきもり)を配置したりします。また、役所のしくみを整備し、日本最古の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作るなど、国としての体裁を整えていきました。
また、漏刻という水時計をつくって正確な時刻を計り、鐘を打って知らせたというエピソードも有名です。『日本書紀』には、天智天皇が671年4月25日に漏刻台をつくったという記述があるのですが、この日付を現在に移し替えた6月10日が「時の記念日」として制定されています。こうした政治改革を行った天智天皇は671年、病気にかかり12月3日に崩御しました。
天智天皇の妻はどのような女性だったのか?
この天智天皇ですが、一体どのような女性を妻にしたのかご存知ですか?
まず天智天皇の皇后は倭姫王(やまとひめのおおきみ)という女性で、天智天皇の異母兄にあたる古人大兄皇子の娘にあたります。しかしこの古人大兄皇子、大化の改新の直後に「謀反の疑いがある」という理由で「中大兄皇子」と呼ばれていた時期の天智天皇に殺されているのです。
当時の天智天皇は、自分のライバルとなる皇族を倒していましたが、倭姫王にとっては相当ショックな出来事だったのではないでしょうか。
その後、倭姫王は天智天皇が即位すると皇后となっています。
二人の間に子供はいませんでしたが、『万葉集』には倭姫王が天智天皇が亡くなった時期に詠んだとされる和歌が4首残されています。
その中の1首がこちらです。
「人はよし 思ひやむとも 玉蘰(たまかづら) 影に見えつつ 忘らえぬかも」
この和歌の意味はこちらです。
「たとえ他の人が、あなたを慕うことをやめてしまっても、私はその面影をいつでも思い出し、忘れることはできませんよ」
これ以外にも、天智天皇は崩御する直前、弟の天武天皇から「倭姫王が即位をさせるべき」との進言を受けたと言われています。父親を夫に殺された倭姫王ですが、妻として夫の立場を理解し、思いやる心は持っていたのだと思われます。
また、天智天皇には倭姫王以外にも8人の女性を妻としていました。このうち、蘇我遠智娘(おちのいらつめ)という女性との間には弟の天武天皇の皇后となった持統天皇を、宅子娘(やかこのいらつめ)という女性の間には天武天皇と「壬申の乱」を戦った大友皇子(弘文天皇)を、そして蘇我姪娘(めいのいらつめ)という女性の間には平城京への遷都を行った元明天皇を、それぞれ子供として授かっています。
※参照:藤原京、平城京、長岡京、平城京の違いとは?場所や特徴を解説!
天智天皇が百人一首で詠んだ和歌について
ところで、天智天皇と言えば百人一首の和歌が有名ですよね。
100人の歌人の中で1番目に選ばれている事もあり、「最初に出てくるから張り切って覚えた!」という方も多いのではないでしょうか。
あらためて、天智天皇が詠んだ百人一首の和歌を見ていきましょう。
「秋の田の かりほのいほの 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
歌の意味はこちらです。
「秋の田んぼに建つ仮の小屋(田んぼの番をするために建てられたもの)は苫(屋根の編み目)が粗い。番をする私の衣の袖は夜露に濡れているよ」
夜に田んぼの番をしている農民の様子を描いたものですね。寒くてブルブル震えているというよりは「夜露に袖が濡れているなぁ」と風情を楽しんでいるようにも思えます。
天皇が田んぼの番をするわけはないので、この歌は天智天皇が農民になりきって詠んだものなのかと言われていましたが、最近は『万葉集』にある「詠み人知らずの歌」が元になっているという説が有力です。
それがこちらの和歌です。
「秋田刈る 仮盧(かりほ)を作り わがをれば 衣手さむく 露ぞおきにける」
意味はこちら。
「秋に田を刈るための仮小屋を作ってじっとしていると、袖口には露がたまって寒いことだ」
こちらの和歌の方が実感が感じられますね。
「寒い」ってはっきり言ってます。
百人一首が藤原定家によって選ばれたのは鎌倉時代の初めの時期。『万葉集』の時代から400年以上経っています。伝承もあいまいになっているのは仕方が無い事なのかもしれません。
この記事のまとめ
天智天皇がどんな人だったのかを、その妻や百人一首の和歌を交えてご紹介しました。
日本という国が唐に負けない国になるよう、国づくりを進めた偉大な天智天皇。彼が農民を思い、農民になりきって歌った歌が「秋の田の~」だとする考えは、国や民のことを思った天智天皇のイメージにぴったりなのかもしれません。父を殺された皇后・倭姫王も国づくりに邁進する天智天皇のことを妻として、憎くも思いつつ理解していたのかもしれませんね。
なお、以下の記事では天智天皇を含めた古代日本の代表的な4人の天皇について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違いやしたことを解説