藤原定家によって選ばれた百人の歌人の秀逸な和歌を一首ずつまとめたという百人一首。
学生時代に習い、覚えたという方もいらっしゃるでしょう。
特に今日では、小学生のうちからこの小倉百人一首を学ぶことも多くなった百人一首ですが、その和歌に込められた意味や訳をご存知の方は、それほど多くはないかもしれません。
そこで今回は、小倉百人一首の61,62,63,64,65番目の和歌について、簡単な現代語訳と、その解説をまとめてみました。
目次
百人一首・第61番の和歌とその訳を解説
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」
第61番の和歌を詠んだのは、伊勢大輔(いせのたいふ)という女性です。
中古三十六歌仙の一人であり、女房三十六歌仙にも選ばれた女流歌人である伊勢大輔。宮中の女房であった時、奈良から届いた八重桜を一条天皇へと運ぶ任を、先輩女房であった紫式部から譲られます。そのとき、藤原道長の命により、即興で詠んだのが、この和歌だったのです。
それでは早速、伊勢野大輔が詠んだこの和歌を、簡単な現代語に訳してみたいと思います。
「古き奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日の九重でも、芳しく咲き誇っています」
和歌の中にある「九重(ここのえ)」という単語は、宮中のことを表しています。昔、中国では王城などは九重の門を構えたことから、天皇の住まいである皇居の中を意味する宮中を、九重(ここのえ)と称するようになったと言います。
そして、昔の宮中があった都は、京ではなく、奈良にありました。
伊勢大輔は、昔の宮中があった地で咲き誇っていた桜が、時代や地の距離を越え、当時の宮中である九重でも変わらず、むしろ一段と咲き誇っていると歌に詠みました。
同時に、変わらず繁栄を続けている天皇の御代を歌ったかのようなこの和歌。
即興でこのような和歌を詠み、さらには和歌の秀逸さが評判となった伊勢大輔。
現代でいうところのデキ女であったことは間違いないでしょう。
百人一首・第62番の和歌とその訳を解説
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
第62番のこの和歌を詠んだのは、あの有名な清少納言(せいしょうなごん)です。
代表作「枕草子」は、現代の教科書にも必ず載っています。
中古三十六歌仙の一人であり、女房三十六歌仙にも選ばれた女流歌人。
才女と評判だった清少納言は、一条天皇の中宮で後の皇后となる定子に仕えていました。
因みに、その時の様子が生き生きと綴られているのが、「枕草子」でもあります。
それでは、清少納言が詠んだ和歌の意味を現代語に訳してみます。
「夜も明けないうちに夜明けを告げる鶏の声を真似てみたところで、函谷関(かんこくかん)ではないのだから、私は騙されたりしませんよ。だから、私とあなたの間にある逢坂の関もまた、許されて開かれることはないでしょう」
これは、当時、清少納言と付き合いのあった藤原行成との間に交わされた歌の一つです。
夜明けも待たずに、清少納言のいるその場を辞した藤原行成が、翌朝になって「昨晩は夜明けの鶏が鳴いたから帰った」という言い訳をします。しかし、それに対し、清少納言が「まさに孟嘗君(もうしょうくん) の鶏ね」と返します。
「孟嘗君の鶏」というのは、中国の故事で、鶏の鳴き声を合言葉の代わりとして開く函谷関を通るため、孟嘗君が部下に鶏の声を真似させ関の門を開けたという話です。
そして、それに藤原行成は、「私たちの間にあるのは函谷関ではなく、逢坂の関です」とめげずに返しました。けれど、清少納言の返したのは、こちらの「夜をこめて〜」の和歌。
つまり、上手く言い訳したつもりかもしれないが、そんなことでは騙されないし、許すつもりもありませんという和歌です。喧嘩の文句にも中国の故事を引用してくるとは、さすが才女と名高い清少納言です。
※参照:枕草子の内容や特徴を中学生向けに解説。作者の清少納言とは?
百人一首・第63番の和歌とその訳を解説
「いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」
小倉百人一首、第63番の和歌を詠んだのは、左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)です。
平安時代の公卿であり、中古三十六歌仙にも選ばれた歌人である道雅。しかし、その人柄としては、幼少期に溺愛されて育ったために素行が悪く、乱れた行いが目立っていたと歴史に名が残ってしまうような人物です。
それでは、そんな彼が詠んだ和歌の意味を、簡単に訳しながら解説していきます。
「今となっては、あなたへの想いを諦めるほかないと、人づてではなく、直接お伝えする方法がないものかと思うばかりです」
この歌は、三条天皇の皇女であり、伊勢斎宮でもあった当子内親王(とうしないしんのう)との仲を、内親王の父である三条天皇によって引き裂かれたときに詠んだと言われる和歌です。
ただ、藤原道雅と当子内親王が恋仲になったときには、当子内親王は神に仕える斎宮という任を終えていました。
藤原道雅が当子内親王と結婚するには立場的に不釣り合いではあるものの、恋ぐらいは許されてもいい筈なのですが、三条天皇は当子内親王をことのほか可愛がっていたとか。
そのため、激怒した三条天皇は、藤原道雅を左遷。
その後、藤原道雅と当子内親王は二度と会うことも叶わなくなります。
素行が悪かったという記録が残る藤原道雅ですが、この和歌を読むと、諦めるしかないとは分かっているからこそ、そのことを伝えるためだとしても、一目会うことができたらば、という藤原道雅の切なく純粋な恋心が伝わってきます。
百人一首・第64番の和歌とその訳を解説
「朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木」
小倉百人一首、第64番に選ばれた和歌を詠んだのは、権中納言定頼 (ごんちゅうなごんさだより)という人物です。本名を藤原定頼(ふじわらのさだより)と良い、中古三十六歌仙の一人でもあることから分かるように、とても和歌の才があった人物です。
しかし、それだけでなく、音楽や書などの才能もあり、見目も麗しい人物だったようで、歌人としても名高い女性たちと多くの関係を持ちました。その中には、紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)や、第65番の和歌にも選ばれている相模などがいたそうです。
それでは、藤原定頼が詠んだ和歌を簡単な現代語に訳し、そこに込められた意味を解説していきます。
「仄かに夜が明けて徐々に明るくなってきたころ、宇治川の川面に漂っていた朝霧が、ところどころ薄くなってきている。そうやって霧が途切れて見えてきたのは、魚を捕るため川瀬に打ち込まれた網代木か」
当時の宇治は、貴族の別荘などが並ぶ、いわばリゾート地のような場所でした。
そして、歌の中に出てくる「網代」というのも、冬の宇治の風物だったそうです。つまり、当時の貴族たちにとっては、宇治川の川瀬に網代木が並ぶ光景は、とても興味深く、ある意味で観光スポットのような情景だったのでしょう。
宇治にやって来た藤原定頼が、冬の早朝、風物ともいわれる美しい光景に出くわし、その情景にとても感動した思いが伝わってきます。
百人一首・第65番の和歌とその訳を解説
「恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ」
小倉百人一首、第65番の和歌を詠んだのは、相模(さがみ)です。一条天皇の第一皇女・脩子内親王や、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に仕えた事で知られています。また中古三十六歌仙の一人であり、女房三十六歌仙にも選ばれた平安時代後期の女流歌人です。
その和歌の才能は広く知られており、和歌六人党の歌道の指導をする立場であったり、また歌人として名高い和泉式部や能因法師、源経信らとも交流がありました。第64番の和歌に選ばれた藤原定頼とも恋仲にあったことでも知られています。
それでは、相模の詠んだ和歌を現代語に訳し、そこに込められた意味をご紹介します。
「つれないあの方への恨みに、恨む気力さえなくなるほど嘆いて涙を流し、乾く暇もなく濡れた袖が朽ちてしまいそうなことがこれだけ惜しいのに、この恋のせいで立てられた噂によって、私の名が貶められていくことほど、口惜しいことはないだろう」
読んでいただくと分かるように、失恋の歌です。
失恋によって、袖がボロボロになるくらい嘆き、涙を流したわけです。
そして、恋破れて惨めに過ごす様が噂となり知られれば、自身の名の評判を落としてしまうことになるだろうと予想します。
つまり、自分を振った相手のせいで駄目になる袖だけでも惜しいと思ってしまうのに、名が落ちたらどれほど口惜しい思いをすることだろうと歌っているのです。
この和歌だけを読むと、あまり相模という歌人が魅力的に感じられないかもしれません。しかし相模は、他にも艶やかな素晴らしい和歌を残しています。才能ある歌人たちと、数多の交流を持った相模だからこそ詠めた和歌ばかりなのです。
この記事のまとめ
今回は、小倉百人一首の第61・62・63・64・65番の和歌を、簡単な現代語訳に直し、その意味や情景を解説してみました。
小倉百人一首は、その名が示す通り、一人の歌人につき、一首の和歌だけが選ばれています。
そしてそれは、ある意味、撰者である藤原定家の好みでもあります。
ただ、好みと言えども、選ばれた和歌は、どの和歌もその歌の中に、さり気なく散りばめられた技巧が光る秀逸な和歌ばかりです。これらの和歌を詠んだ歌人たちは、言葉や知識を巧みに使い、そのときの情景を繊細に表しています。
小倉百人一首に選ばれた和歌は、どれも素晴らしい和歌ばかりです。
その和歌に込められた意味や、表現されている情景を知り、本来の百人一首の奥深さも感じてみてはいかがでしょうか。