承久の乱ってご存知ですか?

歴史の教科書にはよく出て来る出来事なので、聞き覚えのある方もいるかもしれませんね。

この記事では、承久の乱を簡単にわかりやすく解説してみました。

戦場があった場所や、その後の歴史に与えた意義についてもご紹介します。

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承久の乱を簡単にわかりやすく解説!


まずは承久の乱がどのような出来事だったのか、簡単にわかりやすく解説します。

承久の乱とは、1221年に起きた京都の後鳥羽上皇と、鎌倉幕府の執権、北条義時との間で行われたの戦いのことです。

後鳥羽上皇と鎌倉幕府、それぞれの動きを見ていきましょう。

1192年、源頼朝が朝廷から征夷大将軍の位を授かり、鎌倉幕府が正式に認められます。しかし、幕府の役人である守護や地頭を置くことができたのは、おもに関東地方を中心とする地域で、近畿や中国、九州北部の地域では幕府による支配は十分行き届いてはいませんでした。やがて頼朝が亡くなり、長男が2代頼家、次男が3代実朝とその跡を継ぎますが、どちらも長続きはしませんでした。

その一方、当時の京都を中心とする近畿から九州北部の地域では、朝廷とその事実上のトップである後鳥羽上皇が天皇以上に権力を握り、政治を行う「院政」を行った状態でした。朝廷と自らの存在感を高める事に熱心だった後鳥羽上皇ですが、そこで邪魔になっていたのが当時急速に力を付けていた鎌倉幕府でした。

そんな状況の中、1219年に3代将軍の実朝が頼家の子・公暁に暗殺される事件が起きます。
これによって源頼朝の子供は居なくなってしまいました。

そこで後鳥羽天皇は「京と鎌倉という、2つの権力が存在する現状を改める機会が来た」と考え、1221年に幕府を倒すための兵を挙げました。自分が命令すれば、大きな寺院や全国の武士が味方に付くはずと上皇は踏んでいましたが、その思惑は外れてしまい、彼らは味方につきませんでした。

逆に鎌倉では、幕府存亡の危機に東国の武士たちが一致団結します。その事実上のトップだった北条義時ら幕府軍は鎌倉を出発し、進軍の途中で軍勢を増やしていきました。最終的に軍勢は約20万人にまで増え、後鳥羽上皇の軍を破ったのです。

※参照:鎌倉幕府の年表や役職を解説。場所やその跡地にも迫る!

承久の乱が行われた場所は?主戦場を4つ解説


京都の後鳥羽上皇に宣戦布告をした北条義時は、有力な御家人を北陸道、東山道、東海道の3つのグループに分かれ、鎌倉を出ました。

では、実際に戦いが行われた場所はどこだったのでしょうか。

承久の乱の戦場について見ていきましょう。

大井戸渡:武田信光と小笠原長清が上皇側に勝利

大井戸渡(おおいどのわたり)は、美濃(現在の岐阜県西部)と尾張(現在の愛知県西部)の境にある場所です。


この地では6月5日、義時が派遣した東山道グループに所属していた武士と上皇側の武士が激突し、鎌倉側が勝利しました。

参加した武将は鎌倉方が武田信光と小笠原長清率いる5万。

対する上皇側は大内惟信率いる2000で、数が上回る鎌倉側が勝利しています。

墨俣:北条泰時、時房が上皇側に勝利

墨俣(すのまた)と言えば、戦国時代に豊臣秀吉が「墨俣の一夜城」を築いた都市としても有名です。

この地では、北条泰時、時房率いる東海道グループの10万が、上皇側の藤原秀康、三浦胤義率いる1万と対峙します。


ただ、数が劣勢なのに加え、大井戸渡での敗戦を聞いた秀康、胤義は防ぎきれないと判断。

6月6日には墨俣から京に引き上げてしまいます。

これに憤慨した山田重忠率いる300は杭瀬川で抵抗しますが、いかんせん多勢に無勢。

秀康、胤義を追って京へ戻る事となるのでした。

砺波山:倶利伽羅峠の戦いが行われた場所でもある

一方、義時の次男・朝時率いる北陸道グループの軍勢が戦ったのは砺波山(となみやま)です。

この知は越中(富山県)と加賀(石川県)の国境にある場所で、かつて木曽義仲が平家方を破った倶利伽羅峠の戦いが行われた場所と非常に近い位置にあります。


幕府側は朝時に加え佐々木信実、結城朝広率いる4万。

上皇側は宮崎定範を筆頭に、信濃の仁科盛遠や比企能員の縁者である糟屋有久が迎え撃ちます。

5月30日に行われた戦いで勝ったのは幕府側でした。

なお、朝時は後に越中や加賀、能登、越後など北陸諸国の守護を務める事となります。

宇治川:承久の乱決戦の地

それぞれの戦場で敗北した上皇側は、最後の決戦にかけるべく宇治川に防衛戦を敷きます。

上皇側は奮戦し、一ノ谷の戦いで活躍した熊谷直実の孫・直国が戦死するなど、幕府側の犠牲も少なくありませんでした。


この状況の中、泰時は宇治川の渡河を決意

決行は雨天の中行われ、溺死する者もいましたが幕府側は宇治川を突破します。

6月15日、幕府軍はそのまま京へなだれ込み、町を焼き払うのでした。

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承久の乱がその後の歴史に与えた意義とは?


戦いの後、幕府打倒を企てた後鳥羽上皇、上皇の皇子である土御門上皇と順徳上皇の3人は、北条義時によって京を追放されました。

後鳥羽上皇は隠岐(現在の島根県隠岐島)、土御門上皇は土佐(現在の高知県)、順徳上皇は佐渡(現在の新潟県佐渡島)へと流されます。

そして、それぞれが流された場所で一生を終えました。

それでは、承久の乱がその後の歴史に与えた意義は何だったのでしょうか。

簡単にわかりやすくご紹介します。

鎌倉幕府の影響力が日本全国に広まった

1つ目の意義として、鎌倉幕府の影響力が日本全国に広まった事が挙げられます。

承久の乱が起こるまでの鎌倉幕府の影響力は関東地方などの東日本に限られており、近畿地方から西までその力は及んでいませんでした。

しかしこの戦いの後、幕府は後鳥羽上皇に協力した貴族や武士の領地を取り上げて、新たに幕府の役人である地頭を置きました。取り上げた土地の多くは近畿地方や中国地方など、幕府が支配できていなかった地域です。

こうした土地に東国の武士たちを地頭として派遣し、鎌倉幕府の支配地域は全国に広がっていくのです。

朝廷と幕府の力関係が逆転した

もう1つは、鎌倉幕府の力が朝廷より上という事が明確になった点が挙げられます。

承久の乱が起こるまでは、朝廷と幕府が同じくらい力を持っていて、地方によっては領地争いなどのトラブルが発生するケースもありました。

しかしこの戦いの後、鎌倉幕府は「六波羅探題」という役所を置いて朝廷や西国の監視を行い、承久の乱のような動きに目を光らせるようになりました。

こうして、日本は武家社会の時代へと突入する事となります。朝廷が政治の実権を握るのは、幕末から明治維新を待たなければいけません。

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この記事のまとめ


承久の乱や戦いが行われた場所、その後の意義を中学生の方向けに解説しました。

鎌倉時代の初めは東に幕府、西に朝廷が並び立つ状態でした。しかし承久の乱をきっかけに、武家の政権である鎌倉幕府の支配が西日本に及び、朝廷は幕府から厳しい監視を受けることになったのです。

この状態は鎌倉幕府が滅亡する1333年まで続く事になります。

以下の記事では鎌倉幕府を滅ぼすキッカケを作った後醍醐天皇について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:後醍醐天皇のプロフィール!足利尊氏との関係や南朝の場所はどこ?