記憶にも記録にも残る赤備えで思い出すのは、元祖「武田の赤備え」、真田丸をご覧なら「真田の赤備え」、そして「徳川家臣団最強」と謳われた「井伊の赤備え」。この「井伊の赤備え」は幕末まで井伊家軍装の基本とされます。
藩祖直政は「井伊の赤鬼」と称され畏れられますが、今回の主人公・井伊直弼もまた「井伊の赤鬼」と呼ばれます。しかしこちらは憎しみを込めて。
教科書の中でも良い印象のない井伊直弼ですが、本当はどんな人だったのか、当時の評判やお茶に関する逸話を通してご紹介します。
井伊直弼の人物像はどのようなものだったのか?
まずは井伊直弼の人物像について見ていきましょう。
井伊直弼は1815年、彦根城(滋賀県彦根市)で父の11代藩主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれます。子供の頃は鉄之助や鉄三郎と呼ばれていたそうです。
直弼が生まれた時には、すでに長兄の直亮(なおあき)が藩主として父の跡を継いでいました。当時、長男以外は他の大名家の養子になるか、家臣に養われるかが慣例の井伊家で、庶子だった直弼は養子先が見つからなかったのです。そのため彼は「埋木舎(うもれぎのや)」と呼ばれた質素な屋敷で武術・学問・芸術・禅に取り組みながら、出世はあきらめていました。
ところが、藩主である兄の直亮の跡継ぎが亡くなってしまいます。他の兄弟はすでに他家を継いでいたので、32歳の直弼が跡継ぎに抜擢されるのです。1846年に藩主となった直弼は、藩政改革を行って名君と呼ばれました。禅で培った強い精神力や決断力で、直弼は始めたことは途中で投げ出さず、自分が納得するまでやり遂げる性格だった言われています。
日本の開国や安政の大獄も日本と幕府のためと信じてやったことなのでしょうが、責任感が強いせいで融通がきかないという面もあったので、恨みも多くかってしまったのでした。直弼は自分の意見をはっきり話し合いで述べるので、周囲の人はとても驚いたそうです。
そのため、自分の死を覚悟していたのか、死ぬ前に戒名まで決めていたという直弼は1860年3月3日、桜田門外で水戸脱藩浪士らの手によって殺されました。当日襲撃の密告もあったそうですが、供の数などを定めた幕府の決まりを、大老自ら破るわけにはいかないと、警護を増やさなかったそうです。享年46歳(満44歳)でした。
井伊直弼の評判はどのようなものだったのか?
それでは、当時の井伊直弼の評判は、どのようなものだったのでしょうか。
先程も述べたように、藩主時代の直弼は名君として彦根の領民からはとても慕われていました。藩主になった時、直弼は彦根藩の一年分の収入に匹敵するお金を家来や庶民に分け与えました。また何年もかけて彦根の領地すべて見回り民を救済し、愛民と施しの心を大切にしていました。
こうした直弼の姿勢を、安政の大獄で殺される事になる吉田松陰ですら、「領民に対する憐みの心を持った名君だ」と賞賛している程です。
その一方で、明治時代以降に直弼が弾圧した人々やその関係者が政権を握ると、彼の事跡は否定されるようになったばかりか、「国賊」とすら呼ばれるようになります。1909年に行われた開国50周年の式典の際、横浜で井伊直弼の銅像の除幕式が行われたのですが、これに対して薩摩藩の松方正義、長州藩の伊藤博文、井上馨が出席を拒否した事から、直弼に対する当時の政府主導の評判は良くないものだったのでしょう。
また、明治時代に発行された教科書に「井伊直弼は開国に貢献した」という記載を、同じく長州出身の山縣有朋が干渉を行った事も知られている他、徳川慶喜も直弼に対して「決断力はあるが才能はない」と厳しい評価を下しています。そのため井伊直弼の評判は、1952年、作家の舟橋聖一氏による直弼を主人公とした小説『花の生涯』が刊行されるまで、決して良いものではありませんでした。
井伊直弼とお茶の逸話についてご紹介。
最後に、井伊直弼とお茶の関係を逸話を通して解説します。
養子先も決まらず埋木舎で暮らしていた頃、直弼は特に茶道にのめり込みます。それは茶道の流派の1つである「石州流」に、自分で一派を作ってしまうほど優れたものでした。
当時武家の間で行われていた茶道は、華やかで遊びが全面に出たもの。
直弼は、昔の精神性を深めるわび茶に立ち返りたいと考えたのです。
「一期一会」という言葉は多くの人が知っていますよね。この言葉の元は千利休と言われていますが、直弼はこの言葉こそ茶の湯の精神だと考えました。直弼は茶会での心構えを説いた著作『茶湯一会集』の中で、このメンバーで開く茶会はこの一度だけと思って、気を抜かずに臨むようにと書いています。
これ以外にも、直弼の茶道に関する著作には自らの流派の作法を著した『炭の書』と『灰の書』の2冊や、茶の湯の歴史を開設した『閑夜茶話』が残されています。
この記事のまとめ
このページでは井伊直弼の人物像やその評判、お茶に関する逸話についてご紹介しました。
もし直弼が彦根藩主の跡を継ぐことがなければ、今の日本はどうなっていたと思いますか?開国はしていたでしょうか、していなかったでしょうか。開国しないという方針を選択していたらどうなっていたでしょう。
そういう意味で、日本の国全体のことを考えて開国を行った直弼を評価する考えもあります。自分の死を覚悟していたといわれる直弼ですが、自分の死の向こうにどんな日本の未来を見ていたのか、聞いてみたかった気がします。
なお、以下の記事では井伊直弼を含めた井伊家の家系図を、戦国時代の井伊直虎の時代に遡って解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!