幕末や明治時代初期の歴史に触れる中で、西郷隆盛の名前を見ないという事はまずないという程、西郷はこの時代を代表する英雄でした。
ただ、西郷がしたことは何なのか、その業績について聞かれると、上手く言葉には出来ないという方も少なからずいると思います。
この記事では、西郷隆盛が幕末と明治時代にしたこと、そして彼の業績を分かりやすくまとめてみました。
西郷隆盛が幕末にした事をまとめてみた
まずは西郷隆盛が幕末にしたことを説明します。
西郷隆盛のキャリアの始まりは1844年、16歳の頃に、郡方書役助(こおりかた かきやくたすけ)という職務を務めていた事にさかのぼります。この若手時代から西郷は島津斉彬を藩主にする事を望んでおり、幼なじみの大久保利通らと「精忠組」の元となった組織を作りました。
1854年になると、西郷は藩主となった島津斉彬より「御庭方役」に抜擢され、その側近になり一橋慶喜を将軍の継嗣にするために尽力します。斉彬の死後、西郷は安政の大獄によって処罰の対象となった清水寺の僧・月照を助けたいと薩摩藩に匿おうとした事もありました。でも藩はこれを拒否。絶望した西郷は、月照とともに自殺を試みるも、自分一人が助かってしまいます。
そのため、薩摩藩は西郷を死んだ事にするため、1858年に彼を奄美大島に流罪にします。その後、しばらくして鹿児島への帰国が許されますが、今度は新藩主の父、島津久光との不仲が原因となって1862年にまたもや流罪になってしまうのです。しかし、藩の人材不足もあって許され、1864年に再度鹿児島へ戻る事となります。
さて赦免された西郷は、討幕派として活躍を始めます。禁門の変では長州藩を破る活躍をし、2度に渡る長州征伐では藩の責任者として幕府と長州藩の間で上手く立ち回ります。
その後は薩長同盟や王政復古の大号令などを成功させ、戊辰戦争では実質的な最高責任者を努めます。新政府軍が江戸城を攻撃する際は、徳川方の勝海舟の要望を聞き入れ、無条件降伏を受け入れることにしました。
西郷隆盛が明治時代でした事をまとめてみた
続いて、西郷隆盛が明治時代にしたことをみてみましょう。
戊辰戦争の終了後、西郷はいったん鹿児島へ帰って藩政改革に取り組みます。その後、明治4年に新政府に参議として復職し、岩倉具視らが外国を視察する際はその留守を預かりました。
この時、陸軍省や海軍省の設置や徴兵令の布告といった軍政改革を行うと共に警察の創設も行っています。この他にも留守政府の一員として、地租改正や学制、国立銀行条例の発布、太陽暦の制定なども行っています。
しかし、征韓論を巡る主張が大久保や木戸孝允ら海外視察組との対立を招き、故郷である鹿児島へ帰国します。当時は明治政府の政策に反対する士族や若者が増えており、これは鹿児島でも同じでした。彼らを上手くコントロールする為に私学校を作ったのですが、この勢力はかなり大きなものになり、鹿児島県の県政を左右する程まで強くなってしまいます。
そして1877年、私学校の生徒が陸軍の火薬庫を襲撃します。この頃の西郷は温泉や狩猟などをしてくつろいでいたのですが、最終的には彼らの大将として挙兵する事を決意。西南戦争へと突入します。しかし近代兵器と徴兵令による兵士の数に徐々に劣勢となり、ついに鹿児島の城山で自害することになったのです。
西郷の業績を3つまとめて解説!
ここまででは西郷隆盛がしたことを幕末、明治時代に分けて解説してきましたが、最後に西郷隆盛の業績って何なの?という疑問にお答えしようと思います。
西郷の業績は大きく3つに分かれるのかなと思います。
1つ目は1864年以降の薩摩藩および倒幕派を主導したこと。禁門の変や長州征伐、王政復古の大号令において、西郷はその中心にいた人物でした。とりわけ薩長同盟の会談を成功させた事は、当時滅亡寸前であった長州藩の滅亡を回避する事に繋がり、結果として倒幕へ大きく舵を切る契機になった出来事だったのではと思います。
2つ目は江戸城の無血開城を成功させたこと。この出来事は幕府軍と新政府軍の力関係をガラリと変えた事件であったと同時に、徳川宗家の抵抗が全くない形で実現した事でもありました。そのため江戸の街とその人々を戦争に巻き込む事も発生せず、このため幕府の責任者であった勝海舟は西郷を「江戸の大恩人」と称している程です。もしも両者が江戸の付近で全面戦争に突入していたら、「日本の混乱を沈める」という理由で諸外国の介入を許し、日本は植民地になっていたかもしれませんね。
また、1871年から73年の留守政府の責任者として、地租改正や徴兵令、学制や太陽暦の採用といった改革を行った事も西郷の業績と言ってもいいかもしれません。海外組の帰国後、明治6年の政変によって西郷は下野してしまうためこの時期の業績は見逃されがちですが、当時不安定だった国内を維持した事も、彼の業績の1つに数えてはいいのではと思います。
この記事のまとめ
西郷隆盛がしたことを幕末・明治に区分して業績とともに見てみました。
「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」
これは坂本龍馬の西郷を評した言葉です。
人と国を愛し、任せたことには口を挟まず責任は自分が取る、無欲の人だからこそ、多くの士族から慕われた西郷。彼にそれだけの人望がなければ歴史は違っていたかもしれませんね。
なお、以下の記事では西郷隆盛が「維新の三傑」に選ばれた理由について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:維新の三傑の選定理由や坂本龍馬が漏れた原因は?維新の十傑も解説!