%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_25_12_50 日本史を学んでいると、地方を治める役職として国司、郡司、守護、地頭といった役職が登場しますよね。

この4つの役職の役割や、それぞれの違いを説明できますか?

今回は、国司、郡司、守護、地頭の役割や違いについて簡単にまとめてみました。

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国司、郡司、守護、地頭の違いをわかりやすく解説


まずはこの4つの役職の概要や違いについて、表で簡単にまとめてみました。

役職名誕生役割変遷廃止
国司奈良時代戸籍の作成や租税の徴収、兵士の召集、班田収授など国司の設置により名目だけの役職に明治時代
郡司奈良時代郡の政治や裁判、租税の取り立てて、保管し、中央へ献上する等の運用や、班田の収受も任される権限は国司に奪われ、有力百姓(田堵)や武士団に組み込まれる平安中期〜鎌倉時代
守護鎌倉時代任命された国内の御家人、地頭の監督や,国内の軍事・警察の仕事守護大名に変遷する者や、守護代や国人に取って代わられる者も安土桃山時代
地頭鎌倉時代荘園・公領の軍事や治安維持、年貢の徴収、行政守護領国制の成立と共に消滅。一部は国人に変質。室町時代中期

続いて、国司、郡司、守護、地頭それぞれの詳細についてわかりやすくご紹介します。

国司の役割とは?廃止されたのはいつ?


最初に国司の役割について、わかりやすくまとめてみました。

国司は、奈良時代に貴族を中心とした朝廷によって、中央集権国家をつくるために制定された律令制のもとで、諸国を治めるために設置された役職です。主に諸国における戸籍の作成や租税の徴収、兵士の召集、班田収授などをその役割としていました。班田収授とは、6年ごとに戸籍をもとに6才以上の男女に口分田(くぶんでん)と呼ばれる耕地をあたえ、死亡すると国家に返納させる制度です。

国司の身分は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの四等官と史生(ししょう)以下の下役人から構成されていて、任期は4~6年で都から諸国へ派遣されました。しかし、平安時代になると、任命されても現地へ行かずに本人は都にいて、代理人を行かせる「遙任の国司」もあらわれるようになり、これに対して現地に赴任する国司を「受領」と言い、その多くは中・下流の貴族で、諸国に下って勢力を強め、私財を蓄えていました。

鎌倉時代になると、武家政権である幕府によって諸国を管理する役職として守護がおかれて、国司の力は弱まり、室町時代からは名ばかりの役職になりました。江戸時代までは存在した国司ですが、明治時代になって律令制度が無くなるのと同じく、国司も同時に廃止されました。

※参照:鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴と違いを解説!

郡司の役割とは?国司との違いも解説!


郡司とは、国司と同じく奈良時代に朝廷によって制定された律令制のもとで、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官です。郡司の身分は、大領・少領・主政・主帳の四等官に分かれていました。また、中央から派遣される国司が任期制だったのとは違い、郡司は、大化の改新以前にその地域の領主だった地方豪族が代々受け継ぐという世襲制の役職でした。

郡司の主な役割としては、郡の政治や租税の取り立て,裁判を行ったりする事が挙げられます。
他にも租税を取り立て、保管し、中央へ献上する等の運用や、班田の収受も任されるなど絶大な権限を持っていたので、律令制初期の地方の行政は朝廷から派遣されていた国司と、現地の豪族として力を持っていた郡司との二重構造による統治が行われていたと言われています。

しかし、朝廷は郡を分割するなど郡の再編成を進めて、豪族の勢力エリアとは切り離した行政単位としての郡の整備を進めました。そして一つの郡内に複数の豪族が拠点を置くような場合は持ち回り制で郡司に任命するなどして、特定の豪族が郡司を独占し、勢力を強めないように配慮して統治を行いました。

9世紀中頃からは、律令制の行き詰まりを打開するため、現実に即した行政改革が行われ、地方から朝廷へ献上される租税の確保を維持するため、国司の権限を強化し、それ以前に郡司に与えられていた様々な権限は国司に移されて、郡司の役職は名ばかりのものに成っていきました。

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守護の役割とは?守護大名との違いも解説!


守護とは、鎌倉時代以降の武家政権である鎌倉幕府、室町幕府によって、諸国の治安維持や、武士の統制を主な役割としていた地方官です。

1185年、源頼朝が弟の義経をとらえた後、日本各地の治安を守るという理由で、朝廷の許しを得て、諸国に守護を設けました。有力な御家人を守護に任命し、守護は任命された国内の御家人の監督や,国内の軍事・警察の仕事を行いました。諸国には朝廷によって任命された国司もいたので,国司と守護による公家と武家の二重支配が行なわれていました。

鎌倉時代初期の守護は任命された国の軍事権は握っていましたが、任地を自分の領地にすることはなく、国内の御家人と主従関係を結ぶこともありませんでしたが、鎌倉時代末期から南北朝の争乱の時代になると、荘園の年貢を守護が受け取ったり、年貢の一部を兵糧として家臣に与えたりなど、守護が荘園を侵略して自分の領地にするようになりました。

また,守護の中には任命された国の地頭や荘官、武士たちを家来として支配するようになり、室町時代になると守護大名へと成長する者も現れました。室町幕府は将軍家の実権が弱い政権だったので、着々と力をつけた諸国の有力守護大名の連合政権のような体制になり、さらに力を蓄えた守護大名が戦国大名へと成長していくのです。

地頭の役割とは?その支配の特徴について!


地頭とは、守護と同じく鎌倉時代以降の武家政権である鎌倉幕府、室町幕府によって各地の荘園や公領におかれた役職です。御家人が任命され、荘園・公領の軍事や警察、年貢の徴収、行政を行い、直接、土地や百姓などを主な役割としていました。

地頭はもともと「現地」という意味があり、現地に居て荘園・公領の管理や治安維持に当たることを任務としていたので、多くの地頭は任務地に居住して、職務を行っていました。しかし、有力御家人など幕府の役職を持ちながら地頭職にある者は、将軍へ伺候しなければならなかったので鎌倉に居住する者が多く、このようなケースでは自分の親族や家臣を現地へ派遣して管理業務を行わせていました。また親族に管理させた結果、御家人とその親族との間で所領を巡る対立が起こることもあり、親族に地頭職を譲る例もありました。

地頭の支配の特色としては、荘園領主と違って武士が任命されていたため、紛争などを暴力的に解決しようとする傾向がありました。紀伊国阿弖河荘(あてがわのしょう)百姓訴状は、百姓が地頭・湯浅宗親の非法のせいで年貢である材木の納入が遅れたことを荘園領主に釈明した古文書ですが、地頭の湯浅宗親が百姓を強引に徴発した様子や、抵抗すると「耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って、尼にしてしまうぞ」と脅した様子などの記述があります。
また、「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざも広く知られています。

地頭は守護とともに、鎌倉時代には幕府が日本各地を支配するうえで大きな役割を果たしていましたが、室町時代になると、守護の権限が大きくなり、経済力も増して、自分の国内の地頭やその他の武士、名主・有力者などを家臣として統制下へ置くようになりました。その結果、鎌倉時代から続いた地頭の役職は名ばかりのものとなり、室町時代中期ごろには消滅していきました。

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この記事のまとめ


国司、郡司、守護、地頭の違いと、それぞれの役割について簡単にまとめてみました。

国司郡司は、奈良時代に貴族を中心とした朝廷によって、中央集権国家をつくるために制定された律令制のもとで、諸国を治めるために設置された役職です。初期のころは中央から派遣された国司と、地方で勢力を持つ豪族から選ばれた郡司との二重構造による統治が行なわれていましたが、やがて国司の権限が強化されて、郡司は名ばかりのものになっていきました。

鎌倉時代以降は武家政権である鎌倉幕府、室町幕府によって諸国に守護地頭がおかれ、朝廷によって任命された国司と守護との公武の二重支配が行なわれました。しかし、幕府の弱体化とともに守護は権限や経済力を増して、国司も名ばかりの存在となります。守護は自分の国内の地頭やその他の武士、名主・有力者などを家臣として統制下へ置き、守護大名へと成長し、幕府の滅亡とともに戦国大名へと変貌をとげました。

朝廷が権力をもち国司、郡司が諸国を治める時代から、武家政権の統治下での守護、地頭の時代を経て、力をつけた守護大名が、やがて実力主義の戦国大名へと成長していったわけですね。