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「維新三傑」の1人に数えられる木戸孝允ば、幕末の志士として、また明治維新後の新政府の中心人物の一人として有名ですよね。

その木戸孝允の活躍ぶりや、やったことなど人生の光輝く部分と、辛い晩年や、45才の若さで他界した死因など人生の影の部分についてご紹介します。
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木戸孝允は幕末の志士として、どんな活躍をしたのか?


まずは幕末の志士時代の木戸孝允(当時は桂小五郎と名乗っていました)の活躍ぶりについてみていきましょう!

10代の頃から長州藩の若き俊英として注目される存在であった木戸孝允は、1852年、剣術修行という名目で江戸にでて、入門した江戸の3大道場のひとつ・練兵館で神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門わずか1年後には塾頭になるなど、文武両道において活躍します。
江戸に集う志士たちとも交流を広げ、長州藩の尊王攘夷派のリーダーへと成長していきます。

1863年5月には、藩命により江戸から京都に上り、志士として本格的な活動が始まります。
この頃、長州藩は京都の政界において中心的な存在となっていましたが、「八月十八日の政変」で会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派によって、長州藩を中心とする尊皇攘夷派と急進派の公卿たちは京都から追放されてしまいます。この翌年、桂小五郎は再度上洛して、偽名を使ったりして潜伏し、長州藩の立場の回復のために奔走しました。

また、有名な池田屋事件では、じつは桂小五郎は一番早く池田屋に着いていたのに、同志たちがまだ来ていなかったため、近くの対馬藩邸に行っている間に、池田屋が新撰組によって襲撃され、桂小五郎は運良く難を逃れています!!

文武両道なだけでなく、強運の持ち主でもあったんですね。


そして、志士時代の木戸孝允の1番の活躍といえば、やはり薩長同盟を締結したこと!

土佐の浪人・坂本龍馬の仲介によって、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎とが手を結んだことで、明治維新は大きな転換点を迎えました。
薩長同盟を結んだのち、翌年の第二次長州征伐の戦いでは幕府軍を退け、大政奉還を経て、薩摩と長州の主導によって武力で幕府を倒し、新政府の樹立を成し遂げたのです。

明治維新政府で木戸孝允がやったことについて


ここからは、明治新政府で木戸孝允がやったことについて解説します。

木戸孝允は明治維新政府でも、志士時代と変わらぬ活躍を見せます。総裁局顧問や、外国事務係、参与といった重要なポストにつき、「五箇条の御誓文」の作成にも参加します。特にこの五箇条の御誓文は、明治天皇が天地神明に誓って約束するという形で、公卿や日本各地の諸侯などに提示した明治政府の基本方針で、300年続いた徳川幕府にかわり新たに政権を担った新政府の基本骨格といえる重要な方針でした。


そして、1871年、西郷隆盛とともに参議の役職につくと、政府の重要ポストを薩摩と長州の人材で独占し、「廃藩置県」の政策を断行します。

廃藩置県とは、文字通りそれまでの「藩」を廃止して、新政府の管轄のもとに置かれた「県」にする政策で、これによって、日本各地に代々続いていた大名という勢力は無くなり、各藩が独自にもっていた武器、兵力なども武装解除され、あらたに新政府の統制のもとでの全国的な軍隊が編成されました。大名によっては、鎌倉時代から持っていた領地を手放す者もいたのです。こうした一世一代の改革をやってのけたのですから、木戸孝允の凄さが分かりますよね。


また同じ年の9月には、岩倉使節団の副使として欧米各地を歴訪しています。

岩倉具視を全権大使とする使節団でも、木戸孝允はナンバー2の副使という立場で、大久保利通、伊藤博文ら新政府の主要メンバーともに欧米を訪れます。

岩倉使節団の目的は、条約を結んでいる各国首脳を表敬訪問し、国書を提出すること、進んだ西洋文明の視察、調査をすること、不平等条約改正に向けた予備交渉を行なう事にありました。使節団の欧米歴訪は2年に及び、結局、条約改正のための交渉は成果を上げることはできませんでしたが、新政府を担ってゆく首脳が直接、西洋文明に触れて、日本の近代化の必要性を肌で感じる経験をしたことはその後、新政府が近代化を急速に押し進める要因の一つとなりました。

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木戸孝允の晩年とその死因について解説。


ところが、欧米歴訪から帰国したのち、新政府内でのパワーバランスに変化があらわれます。

1873年に大久保利通が内務省を設立して実権をにぎると、木戸孝允は次第に政府の中心から外れるようになっていきます。もっとも、薩摩と長州が中心となって幕府を倒し、新政府を樹立した当時から薩摩、長州、それ以外の勢力など、さまざまな思惑がうごめく新政府内での勢力争いは複雑で、木戸孝允は長年、心労を重ね、心の病をわずらっていたとも言われています。


また、木戸孝允は志士時代から、酒宴で大酒を飲むことが多く、泥酔して意識を失ったというエピソードも知られています。もともとは体も弱く見識ある秀才タイプだった木戸孝允にとっては、幕末動乱から新政府樹立という混乱と激動の中心で働くことは精神的には大変な負担で、さまざまストレスを抱える中、大酒を飲んで発散する傾向があったのかもしれませんね。


1877年、西南戦争の最中に危篤におちいった木戸孝允は、かけつけた大久保利通の手を握り締めて、新政府と西郷隆盛の両方の行く末を心配するうわ言をつぶやきつつ、この世を去ったそうです。それは享年45才の若過ぎる死でした。

木戸孝允の死因は、肝臓肥大や腹痛、胸痛などが有力な説となっています。とくに肝臓肥大は、酒の飲み過ぎも原因として考えられるので、長年のストレスから心を病んだ木戸孝允が逃げ道として、大酒を飲み続けた事情が影響していると言われています。

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この記事のまとめ


木戸孝允は幕末の志士として、京都における長州藩の尊王攘夷派のリーダーとして活躍し、薩長同盟の締結などに力を尽くしました。明治政府の設立後にやったこととしては五箇条の御誓文の作成や廃藩置県政策の断行、岩倉使節団の副使として欧米歴訪など、新政府の中心メンバーとして相応しい活躍ぶりを発揮しています。

しかし、もともと身体が弱かった木戸は、45歳の若さでその生涯を閉じます。その死因は、肝臓肥大、腹痛、胸痛だと言われており、その背景には、新政府内での複雑な争いの中心労を重ね、大酒を飲んでストレスを紛らわしていたという木戸の晩年の姿が浮かび上がってきます。

勝ち気で頭もよく、剣術にも優れ社交的な性格であった反面、生来は病弱で、生真面目な性格でもあったといわれる木戸孝允。近代日本が生まれる大変革の時代を生きたその人生は、今の私たちには想像も出来ないほど多くのストレスを抱えた一生だったのかもしれませんね。

なお、以下の記事では木戸孝允が「維新の三傑」に選ばれた理由について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:維新の三傑の選定理由や坂本龍馬が漏れた原因は?維新の十傑も解説!