歴史を勉強した方であれば、一度は聞いたことのある「摂政」や「関白」という官職。
しかし、歴史好きな方以外には、その官職の違いや特徴などは、意外と認知されていません。
けれど、日本の歴史上では、「摂関政治」なんていう言葉もあるくらい、古来の日本ではとても重要な職務を果たしていました。
そこで今回は、摂政や関白がどんな官職だったのかを解説すると共に、担っていた家柄や摂関政治の特徴を分かりやすくまとめてみました。
「摂政」「関白」とは、どのような官職なのか?
「摂政」や「関白」と称される官職とは、一体どのような官職なのか。
実は、この二つの官職には、似ているようで、まったく違う特徴があります。
それでは先ず、「摂政」という官職について解説していきます。
「摂政」とは、分かりやすく言えば、天皇や女帝の代わりに政務を行う官職です。
古来の日本では、不安定な世情や健康上の問題などから、幼い年頃であっても女性であっても天皇になることがありました。しかし、いくら天皇とはいえ、幼い子供や女性に政治的なお仕事を任せるのは大変なことです。特に、世情が不安定であった昔の日本では、子供や女性というのは肉体的にも不利であり、守らなければいけない弱い立場にもありました。
過去歴代の天皇は、現在の日本のような象徴という立場ではなく、日本という国を統治する立場だったのです。つまり、天皇の持つ権力の強さは絶大であり、天皇の言葉や行動は、国に多大な影響を与えることになるのです。だからこそ、その重責を背負うにはまだ幼すぎる天皇であった場合や女帝だった場合、また、政務をこなすには病弱であった天皇の場合に限り、政務を代行する役目を担っていたのが「摂政」です。
因みに、この「摂政」が初めて置かれたのは、推古天皇の時代です。第三十三代天皇の推古天皇は、日本初の女性の天皇であり、第三十代天皇の皇后でした。しかし、先代である第三十二代天皇が暗殺され、混迷を極める世の中、推古天皇が天皇の位につきました。そして、このときに摂政を務めたのが推古天皇の甥であった聖徳太子です。おそらく、不安定な世情の中にあって、才能があり、信頼できる人間を傍に置きたかったのでは、という推察がされています。
しかし、残念ながら当時は、「摂政」を官職の制度としての令制には加えられていません。
その為、その後も皇族の親族が摂政を務めることを慣例とする時代が続きます。
そして、初めて臣下として摂政となったのは、藤原良房。当時の天皇であった嵯峨天皇の皇女を嫁に貰い、更には自分の娘を、自分の妹の子であり、甥でもあった皇太子に嫁がせた人物。そして、幼い孫が天皇に即位すると、摂政となったそうです。また、この藤原良房の兄の子であり、嫡子のいなかった藤原良房の養子となった藤原基経は、初めて関白となった人物でもあります。
それでは次に、「関白」とは、一体どのような官職なのかを説明していきたいと思います。
官職としての「関白」が登場するのは、宇多天皇の時代。先代、先々代の天皇の摂政をしていた藤原基経を、宇多天皇は先代に倣って重用し、「関白」という位を新たに設けて関白の官職につけました。
この当時、宇多天皇は成人後であり、摂政は、天皇の成人後には職を還すという慣例があったためです。そこで宇多天皇は、成人前の天皇の代行を務める官職を「摂政」、成人後の天皇を補佐して支える官職として「関白」を確立させたのです。つまり関白とは、成人後の天皇を補佐する官職なのです。
それ故、この「関白」という官職は、代行ではなく補佐という立場のため、天皇の持つ権限を超えることはありませんし、任命権も天皇にあります。しかし、「関白」は、官職として事実上のトップであることに違いはありません。更に言えば、「摂政」や「関白」の官職を得てきたのは、天皇の母方の祖父や伯父などの外戚にある人物ばかりです。そのような関係性がある以上、なかなか天皇と言えども、表だって反抗したりはできなかったようです。
そうなってくると、「摂政」や「関白」という官職についた人物たちは、天皇に次ぐ地位と、同等に近い権威を持っていたということになります。
「摂政」と「関白」になることができた家柄とは?
時の天皇に等しい権威を保持していた「摂政」「関白」という官職。
では、一体どのような家柄の人がなる事が出来たのでしょうか?
「摂政」が置かれた当初の時代は、皇族がその職務についていました。
しかし時が経つと、皇族以外の臣下がその職に就くようになります。
(人臣として初めて「摂政」の任についたのが、藤原良房です)
藤原良房は、当時の天皇の皇女を妻とし、その皇女との娘を、実の妹が生み皇太子となっていた甥の妻とします。つまり、外伯父、外祖父として天皇家との結びつきを深くし、摂政としての官職を得ることとなったのです。また、藤原良房は次代のことも考え、兄の子であり自身の姪であった高子を、自身の孫、後の清和天皇へと嫁がせ、同じく兄の子、藤原基経を自分の養子とします。この藤原良房もまた、自分の妹であり、清和天皇の女御となっていた高子の子、後の陽成天皇の摂政となっています。さらには、陽成天皇の次代である光孝天皇にも重用され、その次代である宇多天皇の関白にもなりました。
そうやって、代々天皇の摂政や関白の官職を担ってきた藤原家。
その後、藤原北家という家柄だけが、摂政や関白になる事が出来るようになります。
この藤原北家は、代々の天皇と外戚関係にありました。娘を天皇家に嫁がせ、その子をまた立太子させる。そうやって外戚関係を築きながら、「摂政」や「関白」としての権威を保持していったのです。特に有名なのが、藤原道長や頼通親子です。この二人の時代になると、代々他家を廃しながら権力を保持してきた藤原家の権威は、最盛期を迎えました。しかし、その後は、同じ藤原家内での争いに変わります。同じ一族でありながら、兄弟や親戚間での争いに始まり、とうとうそれが発端として、藤原北家と婚姻としての繋がりがない上皇による院政が広がり、さらに源氏などの武家権威の波に圧され、藤原家の権威は衰退していきます。
※参照:藤原頼通ってどんな人?平等院鳳凰堂や作った理由も解説!
けれど、その後も「関白」としての官職を得たのは、藤原北家に連なる家柄ばかりです。ただし、この頃になると、最早、藤原道長ら親子の時代ほどの権威は持ってはいませんでした。
ちなみに、豊臣秀吉も関白になっていますが、これは藤原秀吉という名で官職についています。翌年には、豊臣姓で関白に留任してはいますが、就任当初は違いました。そのため、就任当初から藤原北家以外の姓で関白となったのは、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次だけなのです。
豊臣秀次の後は、再び藤原北家の嫡流である五摂家が担うことになります。
また、「摂政」の官職となると、この五摂家以外の家柄の者がついたことはありません。
この五摂家とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流とされた家柄の五家の総称です。藤原道長の嫡男、頼通の息子たちから枝分かれし、鎌倉時代に公家としてその家格などが頂点にあった、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家 の五家を総称して五摂家と呼ぶようになりました。
しかし、江戸時代の頃になると、「摂政」も「関白」も、幕府の推薦がなければ、任命できなくなります。また、明治維新後の近代になってくると、内閣などの制度が導入されたため、「摂政」「関白」の官職は廃され、摂家からこれらの官職につく者はいなくなります。
ただし、この摂家は後に公爵の位を叙され、後の皇后や皇太子妃となる女性は、すべてこの摂家出身の女性に限るという不文律がありました。
けれど、その不文律も戦後には大きく変わっていき、名家ではあるものの摂家としての役割を担うことはなくなりました。
摂関政治って何?どのような特徴があったの?
藤原氏が「摂政」「関白」として行った政治を、摂関政治と呼ぶ事があります。
この政治体制は、一体どのような特徴があったのでしょうか。
摂関政治では、天皇が幼少の場合、その代わりとなった摂政は天皇の持つ権限を全て行使できました。さらに、成人した天皇の補佐役である関白であっても、天皇は孫であったり甥であったりするわけですから、大よそ天皇に等しい権威を発揮できたと考えられます。つまり、摂関政治はそれらの官職に就いた者が事実上天皇と同じ力を持っていたという特徴が挙げられるのです。
摂政、関白という官職を藤原家が代々担い、それに伴って、朝廷の重要な官職はすべて藤原家が占めるようになったのも摂関政治の特徴です。特にその権威が顕著となったのは、藤原道長、そしてその子である頼通の時代です。この頃になると、政敵として脅威となる他の家柄の者はすべて廃されており、藤原家による藤原家のための政治が罷り通る世の中になっていました。逸話として有名な話では、朝廷は儀礼の場であって政治などは行われず、天皇が政務を行うというのは形式ばかり。実際の政治は、すべて藤原家の屋敷で行われていたという話もあるくらいです。
これ以外には、摂関政治の担い手である藤原氏の当主が自分の娘を天皇に嫁がせた事も、摂関政治の特徴として挙げられます。昔の日本では、新しく産まれた子供は母親の実家、つまり藤原氏の屋敷で育てるのが一般的でした。身の回りの人間が藤原氏の関係者なのですから、成長した後でも藤原氏の言う事には天皇としては逆らいにくいですよね。
しかし、ちょうどこの時期から、子供を父親の実家で育てる習慣が少しずつ増え始めます。藤原氏の屋敷で育たなかった天皇の場合、どうしても藤原氏の言う事は聞きにくいもの。そして、摂関政治の担い手であった藤原北家と関係のない後三条天皇が即位した事を機に、摂関政治は終わりへと向かっていくのです。
この記事のまとめ
日本の歴史に「摂関政治」という言葉が生まれるほど、「摂政」と「関白」は古来の日本では重要な官職でした。しかし鎌倉時代や室町時代に入ると、家柄としての摂家は残るものの次第に摂関政治を行えるほどの権威を失っていき、1868年には、摂政、関白、そして、征夷大将軍の官職はすべて廃されることとなりました。
ただし、現在でも摂政という役職は残っています。近年では昭和天皇が大正天皇の摂政を務められた他、ここ最近話題になっている「生前退位問題」においても、摂政を置くか否かが議論されています。
こうした事からも、そのため、摂政や関白、そして、その権威を誇っていた家柄を知ることは、日本の歴史を、より深く理解することにも繋がっていると言っても過言ではないでしょう。