そこで今回は、古代日本の3つの文化である飛鳥文化、白鳳文化、天平文化の3つにスポットを当てて、それぞれの文化の特徴やその違いについて解説してきます!
仏教伝来とともに飛鳥文化がはじまった!
まずは飛鳥文化(あすかぶんか)について見ていきましょう!
飛鳥文化の特徴は、仏教の教えをいかした文化だという事です。当時の天皇や皇族、豪族たちは、朝鮮半島から伝わってきた仏教の教えに驚き、美しい仏像に感動して、日本でも仏教の文化を日本でも広めていこうと考えていたのです。
日本の仏教のはじまりは、6世紀ごろに朝鮮半島から渡って来た使者たちが、仏教のお経や仏像を日本に持って来たのが日本の仏教のはじまりです。このことを仏教伝来といい、このお経や仏像をお守りするために7世紀ごろから、日本でもお寺が建てられるようになったのです。
そして仏教伝来というのは、使者たちの大冒険!でもあります。
仏教始まりの地であるインドからシルクロードを通って中国へたどりつき、さらに朝鮮半島へ、そして海をこえて、ようやく日本に伝えられた仏教の教え。使者たちは果てしない砂漠をラクダにのったり歩いたり、小さな木造船で荒れる海を渡ったりとまさに命がけの大冒険!でした。
使者から使者へと長い時間をかけて、お経や仏像はリレーのように手渡されていきました。
ですから仏教伝来ということばのウラには、たくさんの使者たちの命がけの冒険と、仏教を伝えたいという熱い想いがかくされているのです。
そして仏教との出会いから、日本でも原始的な文化から、仏教の教えを生かした文化へと大きな変化がおこります。
この仏教伝来からはじまる古代文化を飛鳥文化と呼んでいます。
そんな皇族や豪族たちの中でも、天皇の代理をつとめる摂政(せっしょう)という高い地位についていた聖徳太子(しょうとくたいし)は仏教を広めることにとても熱心で、その中心となってお寺などを建設しました。
この時に建てられたのが、世界文化遺産にも指定されている奈良の法隆寺です。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥文化
こんなにレベルの高い建築が約1300年も前に作られていたなんてスゴイですね!
法隆寺の中門や金堂は世界で一番古い木造建築で、「エンタシス」と言われるふくらみのある柱の形は、古代ギリシャの神殿とも似ています。仏教だけでなく、ヨーロッパなどの文化や技術もはるばる日本まで伝わってきていた、というのは本当にびっくりしますね。
法隆寺のほかにも四天王寺、中宮寺などのお寺が建てられ、飛鳥寺の飛鳥大仏などいくつもの仏像が作られ、また、高い技術によって仏教の教えを描いた工芸品なども作られました。
また、この時代の文化が飛鳥文化と呼ばれるのは、日本の都は奈良盆地の南部にある「飛鳥地方」におかれていたからです。7世紀ごろのこの時代を、飛鳥時代と呼ぶこともあります。
日本らしい文化のはじまりは白鳳文化から!
続いて、2つ目の白鳳文化(はくほうぶんか)についてご紹介します。この文化は7世紀後半の60年間くらいの間の文化ですが、このころに使われていた年号が白鳳だったという記録があって、飛鳥文化と区別するために白鳳文化と呼ばれています。
白鳳文化を一言でいうと、日本風の文化、という事になるでしょうか。
飛鳥文化によって日本に伝わった仏教文化は、やがて日本風のものに変わりはじめます。この頃の日本は、朝廷を中心とした国造りがはじまったばかりで、とても若々しい元気一杯のエネルギーに満ちていたようです。朝廷では天皇のもとで貴族たちが政治をおこない、文化においても、いままでの中国や朝鮮半島文化のマネだけではない、日本人らしい作品が作られるようになってきます。
このころに造られた仏像は、その前の飛鳥文化のころの仏像と比べると、大らかなさわやかさがあるのが特色です。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/薬師三尊
白鳳文化のころに建てられた代表的なお寺が薬師寺です。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/白鳳文化
また高松塚古墳の壁画も、このころに描かれました。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳
描かれた当時はとてもカラフルな美しい色彩の壁画だったことが想像できますね。
そして貴族たちの中には和歌をつくる者もでてきて、日本らしい文学も誕生します。
今までは中国から伝わった漢文だけを使っていた貴族たちが、日本語の特色である「ひらがな」の先祖にあたる「万葉がな」という文字を使いはじめたのもこの頃からです。
こうして、日本の歴史は日本人によって、文章で書かれて記録されるようになっていくのです。
奈良の都・平城京で花開いた天平文化って?
7世紀終わり頃から8世紀頃に奈良の都・平城京では、白鳳文化からの流れを受けついで、ますます仏教文化はさかんになっていきます。この平城京で貴族たちが中心となって作りあげた文化を天平文化といいます。(天平、というのもその当時使われていた年号です。)
この時代には日本の朝廷は中国の唐(とう)という国に使者を送って、日本よりも進んだ唐の文化をたくさん取り入れようとしていました。唐から学んだことの中にはインド、ペルシャ、アラビアなどの文化もあり、これらの国々の素晴らしい文化を取り入れながら、白鳳文化からの日本的な個性もある、壮大で華やかな作品が多いのが特色です。
建築では、三角形の木材を組み合せて壁を作る「校倉造」(あぜくらづくり)という技術をつかって、奈良の東大寺に正倉院という建物がつくられました。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/天平文化
また中国・唐の国から、何度も嵐にあいながらもあきらめないで、はるばる海を渡ってきた高僧・鑑真(がんじん)のために唐招提寺というお寺も建てられました。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/唐招提寺
今も国宝として大切にされている仏像もたくさんつくられました。
東大寺の四天王像です。たくましく力強くてカッコイイですよね。
※参照:http://hirotravel.com/kansai/toudaiji/page_thumb2.html
独特の美しさで今もたくさんのファンがいる興福寺の阿修羅像(あしゅら)
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/阿修羅
今のように、マンガもアニメもなかった時代、美しい仏像や、力強い仏像は人々のあこがれの存在だったのかもしれませんね。
そして天平文化のころになると、貴族たちはみな漢文を学び、漢文による書物も作られるようになってきます。日本最古の歴史書・古事記や日本書紀が作られ、朝廷が諸国に命じて、日本各地の産物や伝説などを書かせた風土記も作られます。
また漢文ではなく「万葉がな」をつかった日本最古の和歌集・万葉集も作られて、天皇や貴族の和歌から、農民や兵士など民衆の和歌まで約4500首が納められています。
日本の歴史書や文学は天平文化からスタートしたんですね!
この記事のまとめ
飛鳥、白鳳、天平と時代を追って、3つの仏教文化をみてきました。
ここで最後に、それぞれの特色と違いをみてみましょう。
・飛鳥文化とは…
仏教伝来をキッカケに7世紀のはじめごろ、奈良の飛鳥地方で花開き、当時の中国や朝鮮半島の文化によく似ているところがあるだけでなく、遠くギリシャや西アジア、インドなどの文化にも似ている所がある、とても国際色ゆたかな文化です。
・白鳳文化とは…
7世紀の後半に、奈良の藤原京で花開いた若々しいエネルギーに満ちた仏教文化。
中国や朝鮮半島文化のマネだけではない、日本人らしい作品が作られるようになりこのころに造られた仏像は、その前の飛鳥文化のころの仏像と比べると大らかでさわやかなのが特色です。
・天平文化とは…
7世紀の終わり頃から8世紀頃にかけて、奈良の都・平城京で、貴族たちが中心となって作りあげた仏教文化。
この時代には日本の朝廷は中国の唐の文化をたくさん取り入れようとしていました。また唐から学んだことの中にはインド、ペルシャ、アラビアなどの文化もあり、これらの文化を取り入れながら、白鳳文化からの日本的な個性もある、壮大で華やかな作品が多いのが特色です。
古代の仏教文化、というムズカシそうな言葉のウラにはじつは、命がけの大冒険で仏教を伝えた使者たちや、仏教文化を日本で広めるために、熱い想いでお寺をつくったり、仏像をつくったりした貴族や職人たちなど、たくさんの人間のドラマが詰め込まれているんですよ。
今の時代から比べたら、とっても不便な時代だったのに・・・
古代の人たちの情熱ってすごいですよね!