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松下村塾や奇兵隊、戊辰戦争や徴兵制、教育勅語や内閣総理大臣。幕末から明治時代に関するこうした用語の全てにおいて関係するのが、ここで解説する山縣有朋です。

ただ、山縣有朋がどんな人だったのか、ご存知の方はそこまで多くはないかもしれません。

そこで今回は、山縣有朋の人物像をはじめ、その妻や子孫についてご紹介します。
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山縣有朋の人物像について解説。


まずは山縣有朋の人物像について、簡単に見てみましょう。

1838年に長州藩(今の山口県)の武家奉公人(足軽)の長男として生まれた山縣有朋は、幼い頃から槍の稽古に励んでいた子供でした。ゆくゆくは武芸によって身を立てたいと思っていたようで、友人から松下村塾へ勧誘された際も、「自分は学問では身を立てるつもりはない!」と断ったと言われています。しかし結局は松下村塾に入塾。その在籍期間はわずか半年でしたが、彼は吉田松陰の門下生だった事を、生涯誇りに思っていたようです。

明治時代になると、山縣は内閣総理大臣を努めると共に、日本陸軍の基礎を築いて軍制改革を断行。「日本近代政治の黒幕」「日本軍閥の祖」の異名で呼ばれた事はよく知られています。山縣有朋の権力や金銭、勲章への執着ぶりは当時から有名で、彼の事を高く評価していた原敬でさえ、山縣のこの一面については厳しい評価を下しています。

また、山縣は軍人らしく、規則正しく質素倹約な生活を送っていた事でも知られています。また、学問が嫌いだった若い頃とは異なり、やがて和歌や漢詩、書などを好むようになりました。中でも日本庭園好きという一面は有名で、東京の椿山荘、京都の無隣庵、小田原の古希案の3つの庭園は「山縣三名園」と呼ばれる程です。

同じ長州藩出身の伊藤博文との対比も興味深い所です。大の女好きだった伊藤ですが、金銭や家に関する執着は無く、また子分を作るような事はしませんでした。一方の山縣は面倒見が良い親分肌な一面がある一方で、女性関係については妻と、後は妾が1人いる位でした。

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山県有朋の妻はどんな人?


では、そんな山縣有朋の女性関係はどのようなものだったのでしょうか。

山縣有朋の妻は長州藩の庄屋の娘の石川友子という女性で、その実家は庄屋を努めるお金持ちだったそうです。二人の馴れ初めは山縣の奇兵隊時代で、当初は友子の父に一度は断られていましたが、1868年に彼が奇兵隊総督に就任すると父親も二人の結婚を認めたようで、有朋29歳、友子16歳で結婚しました。

当時の山縣は戊辰戦争に関わっており、新婚生活を営む余裕は無かったようです。二人が一緒の時間を過ごせるようになったのは明治に入ってから。山縣は友子をとても大事にしており、女性問題が当たり前な明治の官僚には珍しいタイプだったようです。ただ、二人の間に生まれた子供が次々となくなった為か、友子はナーバスな性格になり、仏の教えにすがるようになったと言われています。

友子は1893年に42歳で没しました。その後、山縣は芸者出身の貞子という女性を妻にしたものの、入籍する事はありませんでした。正式に妻にする話も持ち上がったと言われてますが、貞子が辞退したためこの話は取りやめになったと言われています。

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山県有朋の子供や子孫について解説!


それでは、山縣有朋には子供がいたのでしょうか。
また、子孫の存在についても気になる所ですね。

まず、山縣有朋は友子との間に3男4女の子供を授かっています。しかし娘1人を残して、子供は幼くして全てなくなってしまいます。そのため、山縣は姉の次男の伊三郎を養子に迎えます。この山縣伊三郎という人物は、公爵家を継いで徳島県知事、枢密顧問官などの要職を歴任しました。その後の山縣公爵家は伊三郎の息子、有道が継いで、宮中で侍従や式部官を勤めます。今の山縣家当主は有道の孫、有朋の養玄孫に当たる山縣有徳氏で、現在は会社経営をなさっているそうです。

また、伊三郎は有朋の娘の三男、有光を養子に迎えており、この家系は山縣家分家として男爵を授与しています。有光は陸軍大佐として第21飛行団長を務め、昭和57年(1982年)に79歳でなくなられています。その後を継いだのは栃木県矢板市長を務められた山縣有信氏で、山縣有朋がこの地に開いた「山縣農場」と呼ばれる農場を経営していた事でも知られています。

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この記事のまとめ


このページでは山縣有朋の人物像やその妻、子孫の方についてご紹介しました。

伊藤博文と共に、長州藩の2大巨頭として知られる山縣有朋は、その事跡から近代日本を語る上で欠かせない人物の1人です。面倒見が良く、妻を大切にした山縣ですが、自由民権運動の弾圧や汚職疑惑などから当時の人には嫌われていて、評価が低いのが残念な所です。

なお、以下の記事では山縣有朋など、この時期に活躍した多くの人物を排出した長州藩そのものについて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:長州藩の場所や家紋について解説。倒幕を行った理由とは?