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徳川綱吉というと、生類憐れみの令を制定した「犬公方」などと言われることが多いですが、綱吉本人は一体どんな人だったのでしょうか。

年表をみながら、綱吉の人生をわかりやすく見ていきましょう!
また、彼が制定した「生類憐れみの令」についてもご紹介します。
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徳川綱吉ってどんな人?将軍になる予定はなかった?


まずは徳川綱吉がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

徳川綱吉は、3代将軍・徳川家光の四男として生まれました。7才で元服して綱吉と名乗るようになり、15才で上野館林藩主として所領25万石の城持ち大名になっています。

将軍の息子とはいえ、4番目ですからこのまま上野館林藩主として一生を過ごすハズだったのですが、運命は変転します!4代将軍となった一番上の兄・家綱は後継ぎとなる息子に恵まれぬまま綱吉が34才のときに急死。でも次の将軍候補としては2番目、3番目の兄たちがいる訳ですが、この兄達も若くして亡くなっていて、綱吉が5代将軍の第一候補に浮上します。

大老・酒井忠清は綱吉を5代将軍にすることに反対しますが、老中・堀田正俊の説得によって、綱吉は5代将軍になります。

その後、綱吉は酒井忠清を大老の職から外し、かわりに堀田正俊を大老に任命!
堀田正俊の支えを受け、「天和の治」といわれる善い政治を行って不正代官の処分や、問題のある大名の処分など不正を改める政治を行います。学問好きで儒学を熱心に学んでいた綱吉は、戦国の殺伐とした気風を排除して、徳を重んじる文治政治を進めました。

ところが、1684年、綱吉38才のとき、頼りにしていた大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるという事件が起こります!
綱吉にとっても、大変ショックな出来事だったでしょうね〜。

そして、この頃から綱吉の政治も、だんだん偏った方向へ…。大老・堀田正俊を失った綱吉は、側用人の柳沢吉保らを重用するようになっていき、1687年、41才のときには、あの有名な「生類憐みの令」を制定しました。

綱吉は63才で亡くなる直前まで、この「生類憐みの令」を継続するよう遺言を残しますが、その意思は引き継がれることはなく、6代将軍・家宣は綱吉が死去するとすぐに「生類憐みの令」の廃止を決定しました。

徳川綱吉の年表をみてみましょう♪


ここからは、徳川綱吉の年表をわかりやすい形でご紹介します!


・1646年(0歳)
3代将軍・徳川家光の四男として江戸城で誕生する。
母は側室・桂昌院、幼名は徳松。

・1651年(5歳)
三番目の兄・長松とともに近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。
父・家光が死去し、一番上の兄・家綱が4代将軍になる。

・1653年(7歳)
4代将軍・家綱の右大臣昇進に合わせて元服し、綱吉と称する。

・1661年(15歳)
上野館林藩主として所領25万石の城持ち大名となる。

・1680年(34歳)
家綱に跡継ぎの男子がなかったため養嗣子として江戸城二の丸に迎えられる。
家綱が死去し、5代将軍となり、堀田正俊を大老とする。

・1684年(38歳)
大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺される。
以降、側用人の牧野成貞・柳沢吉保らを重用する。

・1687年(41歳)
殺生を禁止する法令を制定する(生類憐みの令)

・1691年(45歳)
湯島聖堂を建立する。

・1701年(55歳)
江戸城内において浅野内匠頭が吉良上野介に切りつける事件がおこる。
その罪により浅野(内匠頭)長矩に切腹を命じる。

・1703年(57歳)
大石内蔵助ら赤穂浪士47士が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち取る。

・1709年(63歳)
徳川綱吉がなくなる。甥の徳川家宣が跡をついで将軍となる。

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徳川綱吉は学問(特に儒学)が好きだったようで、孔子を祀る建物まで建立しています。これが東京にある湯島聖堂で、今では多くの受験生が合格のお願いをする為に立ち寄る場所にもなっています。受験生の神様と言えば菅原道真が有名ですが、ここに綱吉を加えるのもあり?かもしれませんね。

生類憐れみの令の内容をわかりやすく解説!


生類憐れみの令を制定したことで歴史に名を残した?とも言える徳川綱吉。
彼が力を注いだ生類憐れみの令はその死去とともに廃止される問題の多い法令でもありました。

ここでは、そんな生類憐れみの令の内容をわかりやすくご紹介します。

綱吉が生類憐れみの令を制定しようと考えたきっかけは以下の2つが有力な説になっています。
1つ目は、後継ぎとなる息子に恵まれないのは前世での殺生の罪が災いしていて、その災いを取り除くために、極端な動物愛護を定めた法令を作ったというもの。
そしてもう1つは、戦国時代からの野蛮な気風をあらため、命を大切にすることを奨励するためにこの法令を作った、という見方です。


生類憐れみの令の主な内容としては、


・1687年
生きている魚や鳥、貝を食用として取引する事は禁止。
牛、馬、病人、捨て子を放置してはいけない。

・1691年
犬や猫、ネズミや蛇に芸を教えて見世物にしてはいけない。

・1693年
釣りの禁止。
(ただし、地方では守られていなかったようです)

・1694年
江戸にいる金魚の数を報告するお触れを出す。
犬を殺傷した者を処罰する。

・1695年
大久保と四谷の住民を強制退去させ、そこに犬小屋を作る。

・1700年
ドジョウ、鰻の取引を禁止する。


などなど、細々と定められているのですが、「牛、馬、病人、捨て子を放置してはいけない」などは実際行なわれていたから禁止した訳で、これは命を大切にする法令だな〜、と思う反面、「釣りの禁止」とか、生きている魚や鳥、貝を食用として取引する事などはちょっと行き過ぎじゃないの〜、と思ってしまいます。

また、綱吉は戌年生まれだったことから、犬については「お犬様」と呼んで特別待遇でした。これは当時、江戸では野犬による被害が社会問題となっていて、その解決策として、巨大な犬小屋を中野につくって収容したという事情があったのです。少なくとも、「犬公方」綱吉が狂信的に「お犬様」を大事にした、というイメージとは違ったものだったようです。

とはいえ、行き過ぎた動物愛護の法令や、そのための税金の取り立てなどで江戸市民や、その周辺の農民たちは負担を強いられ、不満が高まっていったのは事実だったようです。実際、この法令は綱吉の死去と共にすぐに廃止されてしまいました。その一方で、この法令には今で言うところの捨て子を保護する一面もあるのですが、この決まりは綱吉の死後も守られるケースがあったようです。

すぐに殺生に及んだり、命を祖末にする気風をあらため文治政治を進めたい綱吉でしたが、あまりにも極端な方へ走り過ぎてしまったのですね〜。

この記事のまとめ


徳川綱吉は兄の4代将軍・家綱に後継ぎとなる息子がいなかった事などから5代将軍となり、前半は「天和の治」と呼ばれる善政を行いますが、40代になって制定した「生類哀れみの令」が行き過ぎた動物愛護の法令で、この法令は綱吉の死去後すぐに廃止されています。

この生類憐れみの令は、「牛、馬、病人、捨て子の放置の禁止」など命を大切にする法令である一方、犬を極端に保護するなど行き過ぎた内容も多く、負担を強いられた江戸市民や、江戸周辺の農民たちの不満は高まっていきました。

3代将軍の4番目の息子として生まれながら、運命のいたずら?で5代将軍になってしまった徳川綱吉。熱心に学んでいた儒教の精神にのっとり文治政治で穏やかな世の中をつくろう!という意欲が行き過ぎて裏目にでたのが「生類哀れみの令」だったのかもしれませんね〜。

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