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西郷従道と聞いて、「あぁ西郷隆盛の弟さんね」とすぐ思い浮かぶ方はそう多くないかもしれません。

西郷従道は、兄の隆盛同様に幕末から明治にかけて活躍した政治家・軍人です。特に初代海軍大臣として、日本海軍の発展に力を尽くした事で知られている人物です。

ここでは、西郷従道の略歴と海軍での功績、そして兄の西郷隆盛との関係についてまとめてみたいと思います。
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西郷従道ってどんな人?略歴を簡単に解説!


西郷従道は1843年に、薩摩国(いまの鹿児島県)下加治屋町に西郷吉兵衛の三男として誕生しました。兄の隆盛は1828年に産まれているので、二人の間には15年の年の差があるという事になります。

成長すると茶坊主になり、薩摩藩主・島津斉彬に仕えますが後に還俗。精忠組という藩士のグループに属し、尊王攘夷活動を行うようになります。1862年の寺田屋騒動にも攘夷派として参加しますが、年少だったため、帰藩謹慎処分で事なきを得ました。翌年の薩英戦争で処分が解かれると、再び倒幕運動に加わり、鳥羽伏見の戦い戊辰戦争に従軍しました。

※参照:西郷隆盛の若い頃や両親について解説。島津斉彬との関係も!


こうした経歴から、明治維新後は軍人として身を置くことになります。明治10~11年にかけて西郷隆盛、大久保利通が世を去ると、従道は薩摩閥の中心となり、参議や文部卿、陸軍卿、農商務卿、内務大臣などを歴任し、初代海軍大臣にも任命されました。

また内務大臣の時代には、訪日中のロシア皇太子が襲撃されるいわゆる大津事件が発生します。ロシアへの配慮から、従道は、大審院に圧力をかけ犯人の死刑を求めるのですが、結果として無期徒刑(いまの無期懲役)の判決が下りました。

その後も元老・枢密院顧問に任命されたほか、海軍大将、元帥となり、内閣総理大臣にも推薦されるほどでしたが、兄・隆盛が逆賊となった経緯から固辞しています。その後、1902年に胃がんのため59歳で亡くなりました。

初代海軍大臣、西郷従道の功績とその考え方について


西郷従道の功績を見ていく上で欠かせないのが軍人としての事跡です。特に海軍における功績が顕著であり、1885年に初代海軍大臣に就任して以来、従道は日本海軍拡張に尽力してきました。翌年にはイギリス海軍の視察に赴いたほか、1891年には山本権兵衛を海軍省大臣官房主事に抜擢します。

山本権兵衛と従道の間には艦船建造に関するエピソードがあります。限られた予算との戦いの仲、政治的責任を従道が、実務を山本が負うことにより建造に励みます。戦艦三笠の調達に至ってはなんと国家予算の流用という荒技まで使っています。そこには責任を取って腹を切ることになっても三笠を作れたらよい、という二人の男の覚悟がありました。

その背景にあったのは、ロシアの南下政策に対する危機意識でした。ロシアの膨張を予知していた従道は、イギリスと組んでロシアを阻止すべきと主張して、日英同盟に賛成します。こうした従道の考え方や行動が、10年後の日露戦争勝利に大きく貢献することになります。

一方、従道は、海軍ひとすじの人というわけではなく、1869年に山縣有朋とともに渡欧して主としてフランスの兵制を調査し、帰国後は兵部省の兵制改革を行うなど日本陸軍の樹立に尽力しています。また、1874年の台湾出兵では陸軍中将として、現地での軍勢指揮を行うなどの活躍もみせています。

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西郷従道と西郷隆盛の関係はどんな感じだったの?


軍人として、そして政治家として華々しい功績を残した従道でしたが、ここで気になるのが兄・西郷隆盛との関係ですよね。従道と隆盛の間柄はどんな感じだったのでしょうか?

最初に述べた通り、西郷従道と兄、隆盛は15歳離れており、兄というよりも父に近い存在でした。その従道が、兄・隆盛と袂を分かつのが明治6年の政変です。征韓論に敗れた隆盛は、帰郷前に従道には東京に残るように諭したと考えられています。

隆盛は、心から慕っていた藩主・島津斉彬から、アジア諸国が連携して西欧列強に対抗するべきとの基本構想を学んでおり、征韓論(というよりも隆盛の考えは平和的使節として自身が朝鮮に赴くというものでしたが)に与したのも、その基本構想の実現にあったと言われています。

その朝鮮半島を狙う有力な存在としてロシアがあり、日本としては朝鮮・清(中国)と連携してロシアの帝国主義を食い止めなければ早晩共倒れになってしまう――ひょっとすると隆盛は、従道にそのように述べたかもしれません。

※参照:島津斉彬の父親や妻について解説。子供はいたの?


何れにしても、隆盛と従道とは決して仲違いしたわけではありません。
それは次の逸話からも明らかです。

兄の自刃により西南戦争が終結したとき、陸軍卿代行となっていた従道は明治天皇に報告を行いました。その折、天皇から兄・隆盛の死を悼む言葉と今後も励むようにとの激励を受けています。隆盛・従道兄弟と明治天皇の信頼関係が伺えます。

余談ですが、従道と西郷隆盛はそっくりだったと言われています。私たちがイメージする西郷隆盛の肖像画の顔は、実は従道の顔(と従兄弟の大山巌の体)をイメージして作られたもの。ただこの肖像画は西郷家の人々や生前の隆盛をよく知る人の意見を参考にしており、彼らも納得する出来栄えになったと言われています。

この記事のまとめ


西郷従道の略歴、海軍を中心とした功績そして兄・隆盛との関係についてまとめてみました。

日頃から温和で、それのみが美徳であるかのような従道が、大津事件では強行な態度で犯人の死刑を要求します。このとき従道は、ロシアに警戒せよ、との兄・隆盛の言葉を思い出していたのかもしれません。

幕末の動乱の果てに日本という国家ができたこと、それを守ることが兄・隆盛や大久保利通から引き継いだ、従道の人生の最大のテーマだったのではないかと考えられます。

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