日本を代表する電機メーカー、パナソニックの生みの親として知られる松下幸之助。
ただ、その生い立ちや若い頃についてはそこまで知られていない気がします。
日本を代表する経営者、松下幸之助の原点はどこにあったのでしょうか。幸之助の若い頃や、彼が座右の銘としていた言葉についてもご紹介します。
松下幸之助の生い立ちはどのようなものだったのか?
まずは松下幸之助の生い立ちについて、簡単に見ていきましょう。
松下幸之助は1894年、和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市)で、父の松下政楠(まさくす)と母のとく枝の三男として生まれました。父親の松下政楠(まさくす)は小規模の地主であり、また村会議員に選ばれた事もあり、比較的裕福な生活をしていたそうです。また、幸之助の兄弟は兄が2人、姉が3人の六人兄弟の末っ子で、彼はその末っ子でした。
しかし幸之助が5歳の頃、父・政楠が米相場で負債を抱え、松下家は破産してしまいます。一家揃って和歌山市本町に転居し下駄屋をはじめますが、やがてその下駄屋も経営が立ち行かなくなり、幸之助は尋常小学校を4年で退学、家計を助けるために丁稚奉公に出されます。
9歳でまず宮田火鉢店、ついで五代自転車に丁稚奉公した幸之助。その頃の仕事には、よくお客さんの小間使いとして煙草の買い出しに行かされたそうです。
ここ幸之助はある事に気付きます。煙草を20箱分まとめ買いすれば1箱おまけが出て来るので、この分が自分の儲けになる。そこで彼はよく頼まれる銘柄をまとめて買い置きしておき、そこから相手に煙草を提供する、という労働の効率化を行いました。この方法だとまとめ買いによって時間を節約する事もでき、差額の小銭を貯めることも出来ると考えたのです。
この人生初のアイデア商売は、同僚の丁稚に妬まれ店主の命令でやめることになりますが、幸之助には商売の筋を体得する体験となりました。またこの時、自分一人だけが勝つのは危ないという事も学んだと言われています。
松下幸之助の若い頃の動向について解説!
続いて、松下幸之助の若い頃の動向についても見ていきましょう。
幸之助は16歳(1910年)頃、大阪電灯(現在の関西電力)に入社しています。その由来となったのは、1903年に大阪に開通した大阪市営電気鉄道でした。また、1913年には関西商工学校夜間部予科に入学し、電気関係の学問に没頭する事になります。
大阪電灯に在職中の幸之助は「電球ソケット」と呼ばれる、簡単に取り外しができる電球を開発します。当時の家庭は、電灯を使用する際に電線を直接引き込んでしていたため、電球の交換すら簡単には出来なかったのです。また、1917年には大阪電灯から独立して電球ソケットの製造、販売を初めます。立ち上げ当初はなかなか上手くいかず、社員が辞めてしまう事態が発生したものの、川北電気(現パナソニックエコシステムズ)という企業から大量受注をした事を機に事態が軌道に乗り始めます。
また、1914年には井植むめのと結婚。またその弟となる井植歳男は共に会社を立ち上げる関係であり、後に三洋電機を設立した人物です。その後も幸之助の事業はアタッチメントプラグや二灯用差込みプラグが立て続けにヒットし、1918年の松下電気器具製作所の創業に繋がります。そして38歳の頃、1932年を「命知元年」と定め、5月には第1回創業記念式を挙行し、経営理念として「水道哲学」「250年計画」「適正利益と現金正価」を発表するのです。
こうした理念からも、幸之助のその後の経営者人生は、単なる経営というよりも志操・信念の実現といったふうに見ることもできるでしょう。
松下幸之助の座右の銘「青春とは心の若さである」とは?
その後も松下電器産業の経営を続けた幸之助は1973年に現役を引退、1989年には94歳でなくなります。その遺産は2450億円という、日本史史上最高額だったと言われています。
晩年の幸之助はというと、老け込むどころか、86歳にして松下政経塾を立ち上げ、88歳で新政策研究提言機構「世界を考える京都座会」を立ち上げ、90歳を超えても中学校に入学する希望を持ち、自分が学ぶための大学を作ろうとするなど、走りつづけることをやめようとはしませんでした。
こうした幸之助のエネルギーとなったのが、座右の銘である「青春とは心の若さである」という言葉でした。70歳のとき、人からアメリカの詩人サミュエル・ウルマンの詩「青春」を教えられ、それを覚えやすいように次のように要約しています。
「青春とは心の若さである。
信念と希望にあふれ、勇気にみちて、
日に新たな活動を続けるかぎり、
青春は永遠にその人のものである。」
おそらく、幸之助は余生というものに思いをいたすことさえなかったに違いありません。この座右の銘の言葉通り、94年の人生全てが、彼にとって青春だったのでしょう。
この記事のまとめ
このページでは松下幸之助の生い立ちや若い頃の動向、そして彼が座右の銘とした言葉についてご紹介しました。
幸之助と言えば、1952年にオランダのフィリップス社と提携を行っていますが、当時の日本のメーカーでこうした海外企業と手を組む人物は滅多にいなかったと言われています。いわば、同世代の人が思い付かない事でも何の抵抗もなく推進できる器量があるという事でしょうか。
もしも彼が今の日本経済を目の当たりにしたら、何を考えどのような事業を行ったのか、とても興味深い所ですね。
※参照:出光佐三ってどんな人物?妻や昭和天皇が詠んだ和歌について