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私たちが見ている日本地図ですが、これを最初に作ったのは誰だったのか知ってますか?
江戸時代の歴史人物、伊能忠敬(いのうただたか)という人です。

伊能忠敬とは、一体どんな人だったのでしょうか。

このページでは、伊能忠敬がどんな人だったのかを、年表や忠敬が作った日本地図を含めて解説しています。
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伊能忠敬がどんな人だったのかを小学生向けに解説!


伊能忠敬(いのう ただたか)とは、一体どんな人だったのでしょうか。
小学生の方にもわかるように簡単にご紹介します。

伊能忠敬と言えば、日本地図を作ったことで有名ですが、もともとは商人の仕事をしていました。1745年、上総国(現在の千葉県中部)に小関家の末っ子として生まれ、子供の頃は三治郎(さんじろう)という名前だった事が分かっています。

その後、三治郎は伊能家に婿入りして忠敬と名乗ります。婿入りした家は、村でも発言力が大きな家だったので、伊能忠敬は村におこる数々の問題を解決する仕事をしていました。特に伊能家では河岸問屋(かしどんや)といって、船で荷物を運んだり、運んだ荷物を保管するビジネスを行っていましたが、この頃、江戸幕府によって、幕府の許可がなければ河岸問屋の仕事をしてはいけないという命令が出されたのです。

この仕事を続けるには、昔から河岸問屋を行っていた証拠を幕府に提出しなければいけませんでした。この時忠敬は、伊能家の三代前の先祖が残していた資料を幕府に見せて問題を解決したのです。実は伊能家の三代前の先祖は、村のことやその他のことについてとても詳しく残しており、その量は100冊以上の本と同じくらいだったと言われています。

こうした細かい記録を発見した経験が、伊能忠敬が55歳という年齢から、日本地図を作り始めたことに影響を与えたと考えられています。平均的な寿命が40歳代だった当時、55歳から始めた日本地図の作成は本当に晩年の大仕事と言えますね。

忠敬は商人だったこともあり、「無駄なものを買うな」「貯金が大事」と家族によく言うなど、お金の使い方にはとても厳しかったと言われています。一方で飢饉や洪水がおこった時は、困っている人に食料をあげた記録が残されています。本当に必要なところにはお金を使うけど、それ以外のところには使わないといった、お金に関してメリハリがあった人だとも言えそうです。

小学生にもわかる!伊能忠敬の年表


ここでは伊能忠敬の年表を、小学生の方にもわかるように解説します。


・1745年(0歳)
上総国(現在の千葉県の中部)に生まれる。
幼名は三治郎(さんじろう)といった。

・1762年(17歳)
伊能家に婿入りする。
この頃から、「忠敬」と名乗る。

・1781年(36歳)
村の名主(なぬし:村の中でも村民の取りまとめや政治を行う役人)になる。

・1794年(49歳)
家を長男に譲り隠居する。

・1795年(50歳)
江戸に出てくる。高橋至時(たかはしよしとき)という天文学者に弟子入りする。

・1800年(55歳)
一回目の測量で、蝦夷(現在の北海道)の地図を作る。

・1801年(56歳)
二回目の測量で、伊豆半島、東日本の東海岸部の地図を作る。

・1802年(57歳)
三回目の測量で、東北地方の日本海沿岸部の地図を作る。

・1803年(58歳)
四回目の測量で、二年をかけて東海地方、北陸地方の地図を作る。

・1805年(60歳)
五回目の測量で、三年をかけて近畿地方、中国地方の地図を作る。

・1808年(63歳)
六回目の測量で、四国地方の地図を作る。

・1809年(64歳)
七回目の測量で、二年をかけて九州南部の地図を作る。

・1811年(66歳)
八回目の測量で、三年をかけて種子島、屋久島、九州北部の地図を作る。

・1815年(70歳)
第九回目の測量で、伊豆諸島の地図、第十回目の測量で江戸の地図を二年かけて作る。

・1818年(73歳)
弟子たちに見守れながらなくなる。

・1821年
弟子たちによって、「大日本沿海輿地全図」が完成する。

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実は伊能忠敬は、地図が完成する前になくなっています。
忠敬が作成した地図は、生前弟子入りした高橋至時の息子たちによって完成しました。

また、忠敬は師匠にあたる高橋至時(たかはしよしとき)を生涯にわたって尊敬していたと言われています。弟子入りした時、忠敬は50歳だったのに対して高橋至時は31歳でした。死ぬ前にも、先になくなっていた高橋至時の墓があるお寺に入りたいと言っていたそうです。

新しい事を学ぶには、自分より年下の人にも弟子入りする事が必要になる場面もあるのかもしれませんね。

伊能忠敬が作成した日本地図はどんなものだったの?


さて、伊能忠敬と言えば、日本地図を作ったことで有名ですよね。
忠敬が作成した地図はどのようなものだったのでしょうか。

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※参照:Wikipedia


伊能忠敬が作ったこちらの日本地図の正式な名前は「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず)といい、忠敬の名前にちなんで「伊能図」(いのうず)とも呼ばれています。

この地図は実測(じっそく)といって、実際に伊能忠敬が歩いて測量した上で作られた地図です。実際の測量が主要な道路や海の近くの場所に限られたため、内陸部にはところどころ空白が目立ちますが、海の近くの場所の細かな部分まで正確に記されているのが特徴です。経度に関しては間違いがあるものの、緯度に関しては当時にしては間違いが少なく正確な地図です。

その後、伊能図は出島に滞在していた医師、シーボルトが国外に持ちだそうとした事件になったり、明治時代以降の地図作成にも使われました。ただ、この地図の原本は1873年、皇居が火災になった際に焼け落ち、控えのものも関東大地震でその多くが焼失してしまいました。

ちなみに、忠敬は仕事にはとても厳しい人だったと言われています。一緒に測量をしていた人の中には忠敬の息子がいたのですが、自分の子供だからといって特別扱いはしなかったそうです。他の隊員にお酒を飲むのを禁止したエピソードも残されています。

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この記事のまとめ


このページでは伊能忠敬がどんな人だったのかを、年表や作成した地図をふくめて小学生向けに解説してきました。

伊能忠敬が成しとげた「日本地図の作成」は、現代でもなかなか簡単にできることではありません。しかも、それが55歳からはじめた仕事だということは驚きですね。

忠敬の人生を知ると、真剣に学び始めることや何かを始めることに、年齢は関係が無いということを実感させられます。