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武士が力を付けつつあった鎌倉時代の末期、天皇を中心とした国造りを目指そうとした人物が現れました。建武の新政で知られる後醍醐天皇です。

このページでは後醍醐天皇のプロフィールを初め、室町幕府の創設者である足利尊氏との関係や、後醍醐天皇が南朝を開いた場所について解説してきます。
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後醍醐天皇のプロフィール。なぜ幕府を滅ぼしたのか?


まずは後醍醐天皇のプロフィールを簡単にご紹介します。

後醍醐天皇は1288年に生まれ、1318年に天皇として即位します。当時の皇室は、持明院統(じみょういんとう、後の北朝)と大覚寺統(だいかくじとう、後の南朝)という2つの血筋が交代で天皇の位を継ぐという決まりが定められていました。大覚寺統の後醍醐天皇にとってこの事態は面白くなく、またこの制度の存在を後押しする鎌倉幕府についても苦々しく思っていました。

このため後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、自らが中心となって政治を行う事を目指します。その為に、自らの側近を能力ではなく実力本位で登用したり、国の運営に必要な財政を農作物ではなく商人からの上納金によって賄うなど、当時としては真新しい政策を行っていました。

そして、1324年、後醍醐天皇は鎌倉幕府に対して挙兵を起こします(正中の変)が失敗。7年後の1331年にも再度挙兵します(元弘の変)がまたしても失敗し、隠岐島へ流されてしまいます。しかしこの頃、楠木正成や皇子の護良親王が挙兵しており、倒幕運動も盛んになっていました。そしてその2年後、後醍醐天皇は3回目の挙兵を行います。
この時は足利尊氏や新田義貞も協力し、鎌倉幕府を滅ぼす事に成功しました。

こうして後醍醐天皇は、晴れて自分が中心となって政治を行えるようになります。後醍醐天皇が行った政治を建武の新政と言うのですが、武士たちには不評で、最終的には足利尊氏に謀反を起こされてしまいます。やがて尊氏によって京の都を追われ、奈良県の吉野の地で南朝を開きます。後醍醐天皇は1339年に崩御しましが、その死後も南北朝の争いは続きました。

※参照:新田義貞ってどんな人?足利尊氏との関係や子孫はいるのか?

後醍醐天皇と足利尊氏の関係はどのようなものだったのか?


後醍醐天皇について振り返る際、足利尊氏との関係が気になっている方も多いと思います。
この2人の間柄はどのようなものだったのでしょうか。

1333年に後醍醐天皇が挙兵すると、足利尊氏はこれに呼応して六波羅探題を攻め落としているのですが、この為、尊氏は鎌倉幕府滅亡の功績ナンバーワンという事になっています。足利家には多くの恩賞が与えられた他、尊氏も元々の名前だった「高氏」から、後醍醐天皇の名前である尊治の「」の字を貰い、よく知られる「尊氏」に改名しています。少なくともこの時点において、尊氏に対する後醍醐天皇の信頼は非常に大きなものがあったのでしょう。

その後、後醍醐天皇と尊氏は決裂し、最終的には南北朝時代へと発展していきます。
ただ尊氏本人は後醍醐天皇個人に対して悪い感情は持っていなかったようで、後醍醐天皇の崩御後、その菩提を弔うために天龍寺を建てています。また、尊氏は一時、後醍醐天皇に反旗を翻した事を激しく後悔した時期があり、一時は出家しようとまで考えた事がありました。

こうした事を踏まえると、少なくとも尊氏個人は後醍醐天皇に対して悪い感情は抱いていなかったと考えられます。尊氏の「尊」の字は、後醍醐天皇の名前「尊治」の一文字ですが、尊治はこの名前を生涯捨てなかった事も、彼なりの後醍醐帝に対する敬意の現れではないかという気がします。

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後醍醐天皇が南朝を開いた場所はどこなのか?


ところで、後醍醐天皇が南朝を開いた場所はどこにあるのでしょうか?

後醍醐天皇が後年、根拠地とした場所は現在の奈良県吉野郡吉野町です。このため南朝の事を「吉野」「吉野朝廷」と呼ぶ事もありますね。この吉野町は天武天皇が壬申の乱の際に挙兵した地であり、また平城京などの古代日本の都の近くにある事から、当時の貴族の遊興地として知られていました。余談ですが、「南朝」という名前の由来は「京都の南にある王朝」というものではなく、この吉野の地にある金峯山(きんぶせん)という山が「南山」と呼ばれていた事に端を発しています。

また、後醍醐天皇が行宮(あんぐう:天皇が御所を失踪している際に一時的に宮殿とした施設)としたのは吉野行宮(よしのあんぐう)と呼ばれる場所です。この行宮は現在の吉野山にある金峯山寺(きんぶせんじ)の小院「金輪王寺」に該当し、後醍醐天皇が崩御した地としても知られています。また、金峯山寺がある吉野山は周辺の南朝勢力との連携が行いやすく、また山道を把握するのも難しい事から、一時的な本拠地にするには打って付けの場所でした。

しかし1348年には、吉野行宮は北朝によって焼き払われてしまい、南朝の場所は賀名生行宮(あのうのあんぐう、現在の奈良県五條市西吉野村)へと移ります。その後も南朝の場所は転々としており、南朝最後の天皇である後亀山天皇がいたのは今の奈良県五條市にある栄山寺であったと言われています。

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この記事のまとめ


後醍醐天皇のプロフィールや足利尊氏との関係、そして南朝の場所についてご紹介しました。

後醍醐天皇の死後、南朝は一時的に京都を奪還しているのですがすぐに奪われてしまいます。また南北朝の争いは畿内だけではなく、日本全国にまで波及していきました。この50年以上に及ぶ争いによって武士の勢力は拡大する一方で、朝廷の力は衰えてしまいます。天皇親政を目指す後醍醐天皇の信念は、皮肉にもその逆の結果を生む事となってしまったのです。

なお、以下の記事では南朝方の有力な武将として知られる楠木正成について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:楠木正成ってどんな人物?足利尊氏との関係や子孫はいるのか?