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古代日本の都については、学校の授業でも習うことがあるので、「藤原京・平城京・長岡京・平安京」など、都の名前自体はご存知かと思います。

しかし、古代の歴史が好きという方でもない限り、どうしてその都がその地にあったのか、どんな特徴があったのかまでご存知、という方は少ないと思います。それもそのはず、古代日本の都「藤原京平城京長岡京平安京」というこの四つの都が順に遷都していたのは、約百年ほどの間で起きた出来事です。

数十年で首都が変わる。考えるだけで大変そうですね。
なぜ、そんなことが起きたのか。どうして都を移さなければいけなかったのか。

そこで今回は、古代日本の都、「藤原京・平城京・長岡京・平安京」の場所や特徴など、その違いを比較してみたいと思います。
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わずか16年の日本の首都!藤原京の場所とその特徴とは


まずは藤原京があった場所と、その特徴についてご紹介します。

西暦676年、時の天皇であった天武天皇の命により、永続的な国家の首都として藤原京の造営は始まりました。
その場所は、現在の奈良県橿原(かしはら)市と、明日香村にまで及ぶ地域とされています。
その規模、おおよそ25km2。当時で考えると、かなり広大な面積だったことが分かります。

そのため、建設工事も大掛かりなものになりました。着工は、676年であり、完成は704年。
ただこれは、一見すると、すごい年月がかかったようにも思えますが、実は、その間に天武天皇が崩御。工事は一時中断してしまうのです。しかし、次代の天皇の持統天皇の命によって、その建設は再開されます。それが、690年のこと。そして、そこからさらに14年の歳月をかけて完成したというのです。

因みに、持統天皇が藤原京へと宮を遷したのは、694年の12月30日の昼前頃だったそうです。これは、当時の記録として「日本書紀」に記載されています。しかし、日本書紀には、藤原京、という名は出てきません。藤原京と呼ばれるようになったのは、近世になってからということです。当時は、「新益京(あらましのみやこ)」という名でした。

そして、当時、このような大規模の京を造るというのは、国内で初めての試みでした。そこで、モデルとされたのが唐の長安です。そのため、京の区画整備などには、条坊制(じょうぼうせい)という、碁盤の目状に大路を配するという都市建設方法を取り、また、建物に関しても大いに参考にされています。
特に、天皇の住まい部分の内裏や、今でいう役所や官庁である官衙などが入った併設されている「藤原宮」などは、瓦を葺いた屋根と朱塗り柱を使用した最古の宮殿であったとされています。

そして、この藤原宮こそ、藤原京の最大の特徴といえるでしょう。藤原京では、この藤原宮が、京の中央に置かれていたのです。この配置は、モデルとした長安や、後の平城京や平安京などとは違います。藤原京のみにある特徴なのです。また、その他の特徴として、藤原京には、外部からの攻撃などに備える城壁や正門などがなかった点も知られています。
しかし、その広大さは古代日本の都の中では最大規模です。天武天皇以前の天皇は、即位するごとに宮を遷していましたが、この藤原京は、持統天皇、文武天皇、そして元明天皇三代に引き継がれていったのです。

けれど、実はこの藤原京ですが、たった16年でその首都としての役目を終えてしまいます。
建設にも相当な時間と労力を要した藤原京が、なぜ、国家の首都ではなくなってしまったのか。

その理由には諸説ありますが、有力な説として、一つは衛生上の問題です。
ただでさえ、川が遠く、水が不足するだろう立地。そして、藤原京の置かれた場所の地形は南東が高く、北西が低い地形となっていました。その高低差により、汚物混じりの汚水などが、京の中央にある宮にまで流れやすい構造をしていたそうです。そこから考えると、疫病などが大変流行ったのではないか、という説です。

そして、もう一つが、藤原不比等の意向説
藤原京のあった場所は、飛鳥に近く、旧有力豪族たちが多く存在していました。
しかし、当時の廷臣で右大臣であった藤原不比等が権力を掌握するには、何かと不都合だったのです。
そのため、旧有力豪族たちから距離を離したかった藤原不比等は、何か不都合があったであろう藤原京を口実に遷都を進めたのではないかという説です。

たった16年という短い期間ではありましたが、この藤原京は、京と呼べる日本最古の京です。
現在は、史跡公園となっており、その頃の面影を見ることはできませんが、専門家による発掘や研究が続けられている場所でもあります。

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奈良の都・平城京の場所とその特徴について


続いて、平城京の場所とその特徴について見ていきましょう。

平城京への遷都が審議されたのは、西暦707年、持統天皇の孫であり次代の文武(もんむ)天皇の時代でした。しかし、その後、文武天皇は25歳という若さで崩御。そのため、その次の天皇であり、文武天皇の母であった元明(げんめい)天皇が即位し、708年に平城京への遷都を本格的に決定します。

永続的な京として704年に完成した藤原京から、平城京への遷都が行われたのは、710年。
なんとも慌ただしいスケジュールです。

そして、平城京の場所は、現在の奈良県奈良市、および大和郡山市周辺に位置しています。位置関係としては、とてつもなく遠いわけではありません。しかし、計画から遂行までの期間があまりに短く、遷都となった当時、建造が終わっていたのは天皇の住まいである内裏、そして、朝廷の正殿とされる大極殿、それ以外の官舎ぐらいのものであったと考えられています。その後、東西に広がる京の建設は段階的に行われ、藤原京の際と同様、条坊制という碁盤の目状に区画整備されました。

ただ、ここでの違いがいくつかあります。藤原京の際には、天皇が暮らす宮は京の中心に置かれていましたが、平城京の際には、北方に置かれています。そして、藤原京の際には、正方形に近い形の京であったのに対し、平城京は、東西に広がる長方形の京だったといいます。
北方の平城宮から南端へと朱雀大路が伸び、そこには京への入り口となる大門、羅城門が建造されました。藤原京の頃にはなかった羅城や塀によって京は囲われ、出入りはこの羅城門だけとなったのです。

藤原京との違いとしては、この朱雀大路の幅の広さが大きく広げられているのも特徴です。

また、その朱雀大路を中心軸に、平城宮から見て左側を左京、右側を右京と分けて呼ばれるようになります。この左京の端に、さらに東へと飛び出している区画があります。ここは、外京と呼ばれる区画で、ここには、興福寺や元興寺などの大きな寺院がありました。
また、元々この区画には、文武天皇が即位できるかどうかという際に、文武天皇を擁護していた藤原不比等(ふじわらのふひら)の邸宅があったそうです。そう考えると、藤原不比等は、格別の待遇をされていたことが分かります。

そして、段階的に整備や建造が進み、完成した平城京は、規模にして24km2にまでなりました。元明天皇の時代に遷都し、その後、74年間もの間、首都としての役割を担う「奈良の都」となったのです。

現在では、平城宮跡資料館が建てられ、復元された朱雀門や東院庭園なども見学できる歴史観光スポットになっています。

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長岡京の場所とその特徴。遷都が行われた2つの理由とは?


長岡京は784年、第50代天皇である桓武(かんむ)天皇の勅命により、平城京から遷都して造営された京です。
その場所は、現在の京都府向日市、長岡京市、そして西京区にいたる地域に位置していました。

しかしなぜ、立派に整備され,74年間も首都としていた平城京から、長岡京への遷都が行われなければいけなかったのでしょうか。

その理由は、諸説あるのですが、先ず1つ目は、純粋に立地問題です。
長岡京があるこの場所には、桂川や宇治川などの大きな川があり、水不足の心配もありません。また、交易の手段に陸路だけでなく、水路を使えるということ。そして、潤沢な水により、衛生問題も解消できるということです。

そして2つ目が、桓武天皇の血筋の問題
実は、長岡京以前の平城京や藤原京の時代は、天武天皇の血筋の天皇でした。

ですが、桓武天皇は天智(てんち)天皇の血筋です。天智天皇とは、天武(てんむ)天皇の兄にあたり、一般的には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られている方です。しかし、この天智天皇の崩御後、天智天皇の皇太子であった大友皇子が、後の天武天皇との争いに負けてしまいました。それ以降、天武天皇の血筋の天皇が続いたのですが、ときの天皇、桓武天皇は、久方ぶりの天智天皇の血筋の天皇でした。だからこそ、天武天皇の血筋が造営した京ではなく、新しい京を造営したかったのではないか、という説です。

そしてもう1つが、寺院の権力的勢力が増しすぎたため、その威力を削ぐためにも、新たな京に遷都したいという狙いがあったのではないか、という理由です。
平城京には、興福寺や元興寺などの大きな寺院が、特別な区画にありました。厚遇されてきた寺院は、贅沢な暮らしばかりでなく、政にまで口を出すようにもなっていたのです。つまり、この掌握されてしまった権力を取り戻すためだったのではないか、と推測されています。そのため、長岡京では寺院の建造は禁止されていたそうです。

このように、遷都の理由は諸説ありますが、桓武天皇は、長岡京へと遷都。
長岡京の特徴としては、藤原京、平城京と遷都するたびの反省を活かした立地を選んだ点が挙げられます。それによって、日本各地から色々な人間や物資が訪れる京となりました。また、桓武天皇は、自らの宮殿を京の街並みよりも15mほど高い地に築き、天皇の権威を知らしめるような造営を目指しました。

しかし、一見、順調そうに見えたこの遷都は、とても波乱に満ちたものでした。

長岡京に遷ったがいいですが、先ず、京の整備造営工事が、思うように進みません。その理由として、桓武天皇が信頼を置いて重用し、京の造営の主導を任せていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてしまったのです。これに激怒した桓武天皇は、その首謀者を捕えようとします。すると、この首謀者の中に、自分の弟・早良親王(さわらしんのう)がいたと聞きつけた桓武天皇は、早良親王を幽閉し、縁を切って流罪にします。しかし、この早良親王は、冤罪だと断食して抗議。そのまま、亡くなってしまったのです。

けれど、本当の問題はここからです。早良親王が亡くなった後から、日照りによる飢饉が始まります。また、天然痘などの疫病が大流行。さらには、桓武天皇の肉親たちが次々に亡くなります。これは、早良親王の祟りだと、桓武天皇は悪夢に苛まれたというのです。その怨霊を鎮めるべく儀式を行うのですが、そのまた二か月後に、大雨によって川が氾濫、京に大きな被害が出ました。

そのため、長岡京への遷都10年にして、桓武天皇は再び遷都を決めることになったのです。

※参照:桓武天皇ってどんな人?年表や行った政治をわかりやすく解説!

より機能性の高い都、平安京の場所とその特徴について


桓武天皇が、長岡京から平安京へ遷都をしたのが西暦794年です。
長岡京での散々たる不遇から逃れるように、現在の京都市と京都市街に位置する場所へと平安京を造営し、遷都しました。この平安京の街路の殆どが、そのままに都市として現代に至るまで存続しています。

平安京の場所は、長岡京から北東に10㎞ほどのところです。土地の選定には、陰陽道を使用したとされていて、桓武天皇が長岡京の際の不遇を、どれだけ気にしていたが窺えます。

しかし、だからといって、京の造営が簡単なわけはありません。

先ずは、天皇の住まいである内裏を建造し、その後に京の造営に取り掛かりました。
因みに、平安京の頃から、この内裏は「大内裏」と呼ばれるようになります。

さらに、桓武天皇は、寺院などの権力的勢力のことも気にしていたので、できるだけ天皇の権威を知らしめるよう、造営を進めていきました。それを物語るのが、京のどこからでも見えるようにして建造された大極殿です。
京の区画整備などは、平城京の造営を踏襲した、長安をモデルにしたものでした。しかし、平安京の特徴として、平城京とは違い、京を囲う羅城は、羅城門の左右部分を除いて、建造されなかったのです。

さらに、平安京の近くを流れる川へは、港を建設。流通のことは勿論ですが、川の氾濫や洪水への対策を備えた造営方法に変わりました。また同時に、京の中には洪水対策の一環として人口の川を造り、その水量を調節しつつも、京に住む人々の水の供給源としたのです。

そして、長岡京では認めなかった寺院の建設も認めます。ただ、不用意に許可を出すのではなく、仏教やその他の知識に優れた僧侶であり、政とは縁を持たない寺院のみ、その建設が許されたそうです。

このように、平安京は、それ以前に造営された京の反省点を改め、より多機能性を備える都として造営された都市だったのです。そのため、平清盛によって兵庫県の福原京に遷都があった一時期を除いて、平安京は1868年まで日本の首都であり続けました。
それを物語るのが、現代にまでその京の名残を存続している、という事実ではないでしょうか。

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この記事のまとめ


今回は、古代日本の都、「藤原京」「平城京」「長岡京」「平安京」の特徴や、その造営された場所などを比較してまとめてみました。

「藤原京」以前までは、天皇の永続的な京を造営するという概念はありませんでした。しかし、その地に住み、生活を行っていく人々のことを考えれば、やはり定住できる場所があるというのは、とても望ましい傾向だったと思います。
そして、さらにはその先である発展に繋げていること。

現代の私たちの常識で見れば、遷都というもの自体が想像できないものです。
しかし、現代のこの常識を持つことができるようになったのは、この古代の京があったからこそだとは思いませんか?
そう思うと、手探りでありながら、より良い京を造ろうと尽力してくれた過去の方々に、感謝しなくてはいけませんね。