歴史の授業で、「壇ノ浦の戦い」と言う戦いを習いませんでしたか?
壇ノ浦の戦いは、「治承・寿永の乱」と呼ばれる平氏と源氏の最後の戦いで、舞台は源氏亜の山口県下関市です。

特に有名なのは、二位尼が幼い安徳天皇と「三種の神器」を抱えて海に入水する場面です。
この戦いで、家は滅亡し、源氏側に政権が変わります。

でも壇ノ浦の戦いで活躍した人物って、イマイチ分からないですよね?
そこで、今回は壇ノ浦の戦いで活躍した人物を5人まとめてみました!

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海戦のタブーを破った源義経


源義経は皆さんご存知の通り、平家側との一ノ谷の戦いと屋島の戦い、志度合戦、さらには木曽義仲との戦いでも活躍した人物です。源平合戦といえば義経でしょって思う方もいるのでは?

壇ノ浦の戦いは海上戦で、海上での戦いに慣れていた平氏と慣れていない源氏では、平氏圧倒的に有利でした。しかも、源氏が海上戦に慣れていないことを平氏側は知っていたんです。義経もその他の源氏軍も、超ピンチですよね!
でも、潮の流れが変わったおかげで源氏に好機が訪れ、源氏は不慣れな海上戦に勝利します。

しかし、源氏が勝利したのが潮流の変化だけではなく、義経の戦法が源氏の勝利に導いたとも言われているんですよ。

その時の作戦が、「義経が平氏側の水手と梶取を矢で射る」というもの。当時の海上戦では、敵船の水手と梶取を射ることは禁止されていました。でも、義経はこの掟をあっさりと破ってしまうんです!
この作戦が本当だったかどうかは分かりませんが、もし本当なら、義経の掟破りが、源氏勝利の道を開いたのかもしれませんね。

※参照:源義経ってどんな人?年表や源頼朝、弁慶との関係について!

侍所別当で弓の名手の和田義盛


和田義盛は、鎌倉幕府に置かれた「侍所」という役職のトップを務めた源氏側の武将です。
この役職は武士の取りまとめや警察のような仕事をしており、そのトップとなっただけに義盛は弓の名手で超上手だったんですよ!

※参照:和田義盛ってどんな人物?出身や侍所別当としての事績について!

もともと義盛は、義経のお兄ちゃんの「源範頼」と一緒に平氏討伐に参加しており、壇ノ浦の戦いでは、陸上から海上で戦う義経軍を支援していました。
ただ、義盛はこの戦いで調子に乗ってしまったのか、遠くの平氏軍に向かって自分の名前を書いた矢を放ち、「その矢を返してみろ」と挑発しちゃいます!
弓の名手と呼ばれた義盛らしい挑発方法ですよね。自分の腕前を見せたかったのでしょうか…。

平氏側は義盛の挑発に乗ってしまいます。平氏側は弓矢の上手い武士を探し、見事に義盛が放った矢を射返してしまうんです! そして、強矢を見つけた平氏は義盛を笑ったとか。このことに義盛は怒り、陸から義経が戦っている船に乗り込み平氏と戦ったそうです。

義盛も自分が仕掛けた挑発なのに、すんなりやり返されてしまって、きっと恥ずかしかったことでしょうね。

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その行動が源氏側の勝利を導いた?田口成良が寝返った理由


田口成良ってどこかで聞いたことありませんか?
志度合戦で義経の家来の嘘で、源氏に寝返った、田口教能のお父さんです!

成良は、四国の最大勢力を持ち、古くから平氏側についていた阿波国の豪族です。
もともと親子で平氏側として戦っていましたが、息子の教能が、義経の部下がついた嘘で、源氏側についてしまいます。でも、成良は捕虜になっていなかったんです!
息子が源氏側についたと聞いた父の成良は、壇ノ浦の戦いの最中、平氏を裏切り源氏側に寝返ってしまうんですよ!

田口親子の源氏への寝返り行動は、平氏の負けを確実にしてしまうものだったそうです。ずっと平氏に仕えてきた成良でしたが、息子と敵味方に分かれて戦うのは耐えられなかったのでしょう。親子愛が感じられるエピソードに見えますが、『吾妻鏡』では成良は平家側の捕虜とされており、この逸話は本当でない可能性もあります。

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義経のライバル! 平家随一の勇将・平教盛


源平合戦において、義経のライバルとしての登場が目立つのが平教経です。
壇ノ浦の戦いにおいて、教経は源氏方の侍を次々と討っていきます。しかし、既に平家側の負けは確定しており、教経の奮戦を見た平知盛は「どうせ最後を迎えるのであれば無意味な殺生はやめておけ」と教経に言いました。

これを聞いた教経は、せめて義経だけは道連れにしようと考え、義経の船を見つけて接近しようとします。義経は教経を避け別の船に乗り移ります。教経は追いかけますが義経はさらに別の船に乗り移ってしまい…。この場面は「義経の八艘飛び」と呼ばれ、壇ノ浦の戦いを彩るエピソードとなっています。

義経を捕まえるのが不可能だと悟った教経は、「自分を生け捕りにして頼朝の前に引き出してみろ。言いたい事がある」と大声をあげました。剛の者として知られた安芸太郎と次郎の兄弟、その郎党が教経を捕まえようとしますが、教経は郎党を海へ突き落とし、兄妹を両脇に抱え海に飛び込みました。この時26歳だったと言われています。

このように最後まで諦めず戦った教経は、屋島の戦いや木曽義仲との戦いである水島の戦いでの活躍でも知られてます。しかし、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』によると、教経は実は一ノ谷の戦いで討死してたという説も…。
どこまでが真実なのか、見極めるのが難しい人物でもあります。

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鎧を着込んだのか?碇を担いだのか?平知盛の最後


平知盛といえば、平家の当主の宗盛にかわって、平家側の軍事を取り仕切っていた点で知られている人物です。
「入道相国最愛の息子」と呼ばれる事もあり、その武勇は父・清盛も高く評価していたと言われています。

教経の最後を見届けた平知盛は、「見るべきものは全て見た」と良い、乳兄弟の家長と共に海に沈みました。
この時、知盛は死んだ後に自分の遺体が海に浮かび、辱められるのを嫌がったそうで、着ていた鎧の上に更に鎧を着込んで入水したと言われています。

また、知盛は鎧を着込んだのではなく、碇を担いで入水したとする説もあります。このエピソードは『義経千本桜』という歌舞伎・人形浄瑠璃で「碇知盛」として描かれています。現在の山口県下関市にあるみもすそ川公園には、以下の碇を担いだ知盛の像が右側に、八艘飛びをする左側の義経の像と対比する形で建てられています。

※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/みもすそ川公園


まとめ


壇ノ浦の戦いで活躍した人物を5名ご紹介しました。
まとめると、以下のようになります。

源義経は、勝つために掟を破り源氏を勝利に導いたと言われている。
侍所別当となった和田義盛は、壇ノ浦の戦いで敵を挑発したエピソードが残されている。
田口成良は、息子の影響で壇ノ浦の戦いの最中源氏に寝返り源氏の勝利に貢献した。
平教経は、平家随一の勇将で義経を追い詰め「八艘飛び」の逸話の素となった。
「入道相国最愛の息子」こと平知盛は、入水時に鎧を着込んだとも、碇を担いだともされる。

この5点を押さえれば、壇ノ浦の戦いがドラマや小説で出てきても、なんとなくストーリーが理解できますよね!


なお、以下の記事では壇ノ浦の戦いとよくセットで出てくる一ノ谷の戦い、屋島の戦いをまとめて解説しているので、宜しければご覧になってみて下さい。

※参照:一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いの違いをわかりやすく解説!