あなたは明智秀満という武将についてご存知ですか?
明智光秀に仕えた武将として一般的に知られている秀満ですが、主君・光秀とはどのような関係だったのでしょうか。
また、秀満と言えば、通称の「明智左馬助」も有名です。この通称にはどのような意味があるのでしょうか。
明智秀満がどのような武将だったのかを、主君・光秀との関係や、通称の「左馬助」の詳細についても調べてみました。
明智秀満ってどんな武将?安土城焼失の犯人ってホント?
まずは明智秀満がどのような武将だったのかを、簡単にご紹介します。
明智秀満は1536年、美濃国(今の岐阜県南部)の明智家の一族、明智光安の子供として生まれたと言われています。当時の明智家は、美濃国の戦国大名、斎藤道三に仕えていました。しかし1556年、斎藤道三が息子の義龍との戦いで戦死すると、道三側についていた明智家は義龍に居城である明智城を攻められ、城は落城します。
※参考:斎藤道三ってどんな人物?父親の松波庄五郎や家臣について!
秀満の父である明智光安はこの時自刃したと言われているのですが、秀満および明智宗家の嫡男である光秀は城を脱出します。その後、光秀は朝倉義景や足利義昭に仕えていた記録がある一方、秀満についての記録は残されていません。秀満が歴史の表舞台に登場するのは、織田信長に仕えた光秀が丹波国を与えられた頃になります。1581年、秀満は光秀より福智山城(今の福知山城)の城主に任命されています。
1582年、光秀が本能寺の変を起こした際はこれに参加。その後は信長の居城である安土城の守備を担当します。山崎の戦いで光秀が敗北した事を聞いた後は後詰として出陣しますが、秀吉側の堀秀政に破れ、光秀の居城であった坂本城へ退却します。城内にあった宝物や財宝の多くを秀政らに引き渡した後で、城に火を放って自害しました。47歳でなくなったと言われています。
この間、安土城は何者かによって焼き払われているのですが、その犯人が秀満なのではないか?という説があります。ただ現在では、信長の次男である織田信雄によるものであるという説や、山崎の戦いの際の混乱に乗じた野党による説が主流になっており、秀満が安土城を焼き払ったとする説は、学会の主流ではなくなっている模様です。
※参考:安土城の場所や天守閣について解説。復元されない理由とは?
明智秀満と光秀の関係はどのような間柄だったのか?
明智秀満と主君・明智光秀の関係ですが、諸説はあるものの2人は従兄弟にあたります。光秀の父親とされる明智光継と、秀満の父親の明智光安が兄弟にあたるからです。ただし、明智家の家系図については曖昧な部分も多く、秀満と光秀が本当に従兄弟なのかについては何とも言えない部分もあります。
また、秀満は1578年頃に光秀の娘を妻に迎えています。この点から、秀満と光秀は「義理の親子」の間柄であるとも言えます。山崎の戦いの後、秀満は坂本城に火をかけて自刃しますが、この時、光秀の子女と共に自身の妻子を殺したとも言われています。一方で、秀満の子供は助かっており、後に三宅重利と名乗り肥後細川家に仕えたという説もあるのですが、この点も諸説あり確実な事は分かっていないようです。
1582年、明智光秀は本能寺の変を起こしますが、光秀が信長を討つことを最初に相談したのは秀満だと言われています。従兄弟や義理の親子という間柄も要因ではあったと思いますが、光秀が自身の家臣団の中で、最も信頼していたのは秀満だったのではないかと感じるエピソードだと感じます。この時、秀満は光秀を諌めたと言われてますが、この後光秀は斎藤利三ら4人の重臣に信長襲撃を相談してしまいます。
秀満は「もう後には引けない」と感じたようで、率先して本能寺の変の実行を進める事に。主君そして自身のこの後の運命がどうなるかを分かっていた上での行為のように感じます。秀満と光秀の間には、同じ明智家である事を超えた、強い信頼関係があったのではないかと感じます。
明智秀満の通称「左馬助」の意味は?ランクはどれ位?
2001年にカプコンから発売された『鬼武者』というアクションゲームに、明智左馬介という秀満をモデルにしたキャラクターが登場します。秀満と言えば、「左馬介」もしくは「左馬助」という通称でも知られていますが、この通称には一体どのような意味があるのでしょうか。
「左馬助」とは、馬寮(めりょう/うまのつかさ)という官職の1つで、律令制が普及していた奈良時代では、朝廷が保有している馬の飼育や調教を担当していた役職でした。この「馬寮」という官職は「左馬寮(さまりょう)」と「右馬寮(うまりょう)」に分かれており、左馬助は前者の左馬寮に属した役職でした。
秀満以外に「左馬助」という官職を名乗った武将としては、今川義元に仕え、また大河ドラマの主人公にもなった井伊直虎の母方に伯父にあたる新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)が挙げられます。
※参考:新野左馬助親矩ってどんな人?子供や子孫はいるの?
「左馬助」と同じ左馬寮に属した官職として、「左馬頭」というものがあります。これは従五位上に相当する官職で、足利直義(尊氏の弟)など、室町幕府において将軍に次ぐNo.2に相当する人物が就任した事で知られています。また、後者の右馬寮に属した役職としては「右馬助」「右馬頭」といった官職が挙げられます。
氣になる「左馬助」のランクですが、正六位下に相当します。一方、秀満の主君である光秀の官職は「従五位下 日向守」でした。順番としては「正六位下→正六位上→従五位下」となっているので、2人の官職の地位はさほど変わらない気がします…が、日本の官職では従五位下より上の官職を持っている者が「貴族」とされており、従五位下と正六位上の間には、とてつもなく大きな壁があると言えるでしょう。
まとめ
明智秀満がどのような武将だったのかを、光秀との関係や通称の左馬助の意味も踏まえつつご紹介しました。
本能寺の変前後のエピソードは広く知られている一方、秀満の前半生は光秀以上によく分かっていません。秀満は若い頃「三宅弥平次」と名乗っており、また明智光春や遠山景玄とも称していたと言われる等、その経歴の多くは謎に包まれています。
2018年2月には、光秀の居城である坂本城の建造を、秀満が担当したと記されている書状が見つかった事も話題になりました。今後、明智家についての研究が進む中で、秀満の詳細が明かされるのか…個人的にはとても期待しています!