%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_02_12_05 鎌倉時代から続く名門・今川氏の最後の大名となった今川氏真

和歌・連歌・蹴鞠に通じた文化人として知られる一方で、娯楽に溺れて国を滅ぼした人物として描かれることが多いのも事実です。

父・今川義元が桶狭間の戦いで非業の死を遂げた後を受けて、清和源氏の流れをくむ足利将軍家に連なる家格の今川家を相続した氏真の人生は、一体どのようなものだったのでしょうか。

今川家の家系図や、徳川家康との仲についても見ていきましょう!

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今川氏真の人生とはどのようなものだったのか?


まずは今川氏真の人生がどのようなものだったのか、簡単にご紹介します。

1538年に今川義元の嫡男として産まれた氏真。母親は武田信玄の姉である定恵院です。1554年に結婚した北条氏康の娘・早川殿とは、彼女が亡くなるまで生涯を共にする間柄でした。

1558年頃から、駿河や遠江では氏真の名義で文書が発行されている事から、この頃には今川家の家督を継いでいたと考えられています。その2年後に父の義元が桶狭間の戦いで戦死したため、名実と共に今川家の当主となる事となりました。ただし、祖母の寿桂尼が存命中はその後見の下で政務にあたっていたと思われます。

義元の死後、今川家領内で国人らの離反の動きが表面化します。この動きを鎮めるために氏真は寺社や国人らに文書を出して繋ぎとめをはかる一方で、井伊直親などの疑いのある国人を誅殺するといった行動を取っています。しかし後世の記録によると、このような情勢下であったにも拘らず氏真は歌会を催し、「風流踊」が流行した時は自ら太鼓をたたいて興じたという逸話も残っている程です。この辺りが、氏真の後世の評価を悪いものにしてる大きな理由でしょう。

1568年には、武田信玄が駿河に攻め込んできます。氏真自身も出陣しますが、有力な家臣の寝返りもあって敗走、駿河を占領されました。遠江の掛川城に逃れた氏真ですがこの城も家康に包囲され、その後半年にわたる籠城戦となります。妻の実家である北条家の援軍も武田勢を駆逐するには至らず、徳川家、北条家との交渉の結果、最終的に氏真は掛川城を開城します。これで戦国大名としての今川氏は滅亡したとされるのです。

駿河を追われた氏真がまず身を寄せたのは北条家でした。駿河を回復するために小田原で活動していた氏真ですが、早川殿の父・氏康が死去して後は、家督を継いだ氏政が武田と和睦したため小田原を離れ、家康の庇護下に入ります。

また、1575年には京都に入り仇敵・織田信長と会見し、同年に行われた長篠の戦いにも従軍して一定の活躍を見せました。家康から牧野城をあたえられますが、1年足らずで城主を解任され浜松に呼び戻されています。この時、家臣に暇を与える文書を発行したのが、今川家当主として最後の仕事になりました。また、城主在任中に出家して「宗誾」と号していた氏真の後半生の動向は不明な部分が多いのですが、公家の日記に度々登場しています。

1591年頃の氏真は京都に住んでおり、家康や豊臣秀吉の与えた所領からの収入で生活していたものと考えられます。また1612年頃には京都を離れ、江戸・品川へと移り住んだようです。そして長年連れ添った早川殿が亡くなった2年後の1615年、77歳でその人生を終えました。

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今川家の家系図をわかりやすく解説。


続いて、氏真から見た今川家の家系図についてご紹介します。


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※参照:今川氏真の正室早川殿ってどんな人?子供や晩年について解説!


次に父親の今川義元ですが、実は末っ子だったため、本来は家督を継ぐ事はない人物でした。しかし、兄2人が続けて亡くなった事や(義元の父親である今川氏親の正室である寿桂尼の子供が)義元しかいなかった為、側室と間に産まれた玄広恵探(げんこうえたん)との家督争いの結果、今川家の当主となるのです。

※参照:今川義元ってどんな人?年表や妻をわかりやすく解説!


義元や氏真、そして氏真の祖父である今川氏親やその嫡男の氏輝を支えたのが、氏真の祖母にあたる右側にいる寿桂尼(じゅけいに)という女性です。彼女は京の公家の出身であり、その人脈を使って今川家の勢力拡大に力を尽くしました。また、武田信玄が正室の三条の方との婚姻の仲介を行ったとも言われています。

※参照:今川義元の母、寿桂尼はどんな人?年表や何をしたのかを解説


また、氏真の曽祖父にあたる今川義忠は、当時「伊勢新九郎」と名乗っていた北条早雲の姉妹である北川殿と結婚し、この後の今川家と北条家の姻戚関係のはじまりのキッカケを作った人物です。また、娘を京の公家・三条実望に嫁がせるなど、公家との関係も緊密になって行きます。

そしてその父親である今川範忠は室町幕府によく仕え、その軍功の恩賞として「今川」の姓を名乗れるのは範忠の直系の子孫の身とされる「天下一苗字」の待遇を受けた事で知られる人物です。今川範忠は今川家の5代目の当主なのですが、今川家はもともと足利一門の吉良家の分家として、今川国氏を祖として始まりました。

今川氏真と徳川家康の仲は意外と良かった!?


ところで、今川氏真と言えば実は徳川家康と仲が良かったのでは?と言える程、その後も交友が続いている事でも知られています。

氏真と家康の転機となったのは掛川城を開城した時でしょう。氏真はこの時、家康と北条氏康の3者で結ばれた盟約の中にある「武田を駆逐した後、氏真が駿河の国主となる」という約束を信じて家康を頼りました。

そして家康も約束を全く無視していたわけではありませんでした。長篠の戦後に一城を与えたのもそのあらわれと考えられます。ただし、一年足らずで解任となったところも見ると、家康もこの時点では氏真の器量をある程度見切っていたのかもしれません…。

家康が氏真との盟約を守ろうとしていたと思われることを端的に示している逸話があります。

武田氏が滅亡した後、家康は信長に「駿河を氏真に与えてはどうか」と進言したといいます。これに対して信長は「何の役にも立たない氏真に駿河を与えられようか。不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えたと言われています。結局、氏真が駿河の国主の座に返り咲くことはありませんでしたが、家康の氏真に対する律儀な姿勢がわかります。

“役に立たない”と信長に言わしめた氏真を家康は領地をあたえて生活を支え、公家との饗応の際には同席させるなど、家康は氏真の人生の最後まで面倒を見続けました。この2人は時には和歌について語り合うこともあったようで、氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返したそうです。

また、晩年の氏真はダラダラと長話をする癖があったようで、さすがの家康もその扱いには困ったようです。当時の氏真は江戸に移り住んでいたのですが、度々江戸城を訪れては長々と無駄話をするので、耐えかねた家康は氏真に江戸城から離れた品川に屋敷を与えたといわれています。

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この記事のまとめ


今川氏真の人生と徳川家康との仲、今川家の家系図について解説してきました。

名門今川家を存続させるために武田家、北条家と築いた同盟関係・姻戚関係は、結局、駿河・遠江の大大名である今川家を守る事にはなりませんでした。そして図らずとも、その領国を争った徳川家康と和歌の話をする仲だったのですから、人生は何が起こるか分からないものですよね。

氏真の人生は流転の人生であったのかもしれません。武将としては凡庸であった彼ですが、数多くの和歌を後世に残し、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねています。文化人として名を遺した武将のひとりといえるでしょう。