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信長が天下統一を進める前の戦国武将と言えば武田信玄や上杉謙信が有名ですが、この二人と同じ位力があったのが、関東を治めていた北条氏康です。信玄や謙信に比べると知名度は落ちる面はありますが、氏康の凄さは両者に全くを引けを取りません。

この記事では北条氏康がどんな人だったのかを、年表や使った家紋を通してご紹介します。

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北条氏康ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは北条氏康がどんな人物だったのかを、簡単に見てみましょう。

1515年に北条氏綱の嫡男として生まれた氏康は、16歳の初陣から上杉、武田、今川、里見、足利と言った名だたる戦国の猛者たちと戦い続けてきた名将でした。こうした戦の中でも、氏康が特に目覚ましい戦果を出したのが、1546年の河越夜戦です。「日本三大奇襲」として、かの桶狭間の戦いとも並び称されるこの戦いは、わずか1万足らずの兵で扇谷、山内両上杉軍8万の兵を破った程です。

この河越夜戦によって関東一帯の支配を確立した氏康。その後も生涯を通して、多くの戦いに明け暮れた彼の身体には多くの傷がありましたが、その傷は全て、体の正面にある「向こう傷」であったと言われています。敵に決して背を向けることなく戦い続けた証として、世の人々の尊敬を集めていたようです。

また、北条氏康と言えば内政に長けていた面も見逃せません。

当時の日本の中で最も民の負担の少ない「四公六民」(六割が民のもの)の税制をとり、飢饉の際にはさらに税率を下げたり免除したりしました。また、民の声を直接汲み上げられるように目安箱を設置しており、こうした方策により多くの人々の支持を集めたと言われています。

他にも、発行する文書についても、手書きの花押で承認するのではなく、虎の朱印にすることで書類作成の効率を上げる、検地や家臣所領についての調査を詳細に行うことで、税や軍役の負担を明確にするといった官僚機構の創設を行いました。
余談ですが、検地は氏康の祖父である北条早雲が最初に実施した説もあります。

※参照:検地をわかりやすく解説。方法や太閤検地との違いは?

氏康は居城の小田原城の城下町を徹底的に整備し、その結果町は清潔に保たれるようになりました。また、人や物資を馬で運ぶ交通制度を確立するだけでなく、早川から水を引き、飲料水として供給するという上水道の建設までしていました。こうして整えられた小田原の町には全国から職人、文化人が呼び寄せられ、商業・文化の発展につながりました。

このように戦にも内政にも秀でていたとも言える氏康ですが、その凄さはこれだけに留まりません。彼は和歌も巧みに詠み、蹴鞠の作法も身に着けていた文化人でした。特に歌の方は、後水尾天皇の命で編纂されたという和歌集にも選出され、不吉な狐もとっさの機転で歌を詠み退治したという逸話も残っています。

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北条氏康の年表をわかりやすく解説!


武勇、内政、文化全てにおいて優れた面を発揮した氏康。
その生涯を、年表を使って振り返ってみましょう。


・1515年(0歳)
後北条氏第2代当主である北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男として生まれる。

・1530年 (15歳)
小沢原の戦いにて初陣。上杉朝興と戦い、これに大勝する。

・1536年(22歳)
父、北条氏綱が相模国へ侵攻し、河東地域を支配下におく。

・1538年 (24歳)
後の嫡男である北条氏政が生まれる。
(長男は夭折のため、次男の氏政が嫡男になる)

・1541年 (27歳)
父、北条氏綱の死により家督を継ぐ。

・1545年(31歳)
第二次河東一乱で今川義元に敗北し、駿河国の東部を失う。
※参照:今川義元ってどんな人?年表や妻をわかりやすく解説!

・1546年(32歳)
河越夜戦で扇谷上杉家を破る。

・1550年(36歳)
前年に発生した地震に対応するため「公事赦免令」を発布。
税制改革を実施し、北条家の支配権強化を行う。

・1552年(38歳)
妹の産んだ足利義氏を古河公方に擁立し、関東の大部分を平定する。

・1554年(40歳)
駿河国の今川義元、甲斐国の武田信玄と甲相駿三国同盟を締結する。

・1559年 (45歳)
嫡男の氏政に家督を譲るも、実権は握り続ける。

・1561年(47歳)
上杉謙信に小田原を攻められるが、これを撃退する。
※参照:上杉謙信の家系図を簡単にわかりやすく解説!

・1568年(54歳)
徳川家康と結び、侵攻してきた武田信玄を退ける。

・1569年(55歳)
上杉謙信と同盟(相越同盟)を結ぶ。
武田信玄が小田原城に攻めてくるが、これを撃退する。

・1571年 (57歳)
前年より発生していた中風が原因で、小田原にて病没する。
遺言として上杉との同盟を破棄し、武田と同盟を結ぶよう言い残したとされる。

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年表を見てざっとまとめてみますと、氏康は前半生で足利氏、上杉氏の覇権を奪って関東平定を成し、後半生は毎年のように関東に侵入する上杉謙信や武田信玄といった戦国の猛将を退け続けたと言えそうですね。

氏康死後、後北条氏は氏政が家督を継ぎ領土を北関東にも広げるも、最終的には豊臣秀吉に攻められ滅亡してしまいます。しかし氏康の四男で徳川家康と親しかった氏規が家名の再興を許され、大阪の狭山に領土を与えられ明治維新にまで存続しました。

北条氏康が使った家紋とは?執権時代とは微妙に違う?


最後に、北条氏康が使った家紋についてご紹介します。

氏康など後北条氏が使った家紋は、三角形を三つ集めた「三つ鱗」です。

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この「三つ鱗」とは、元々鎌倉幕府の執権であった北条氏の家紋でした。後北条氏は、執権を務めた北条氏の後裔を称する事で関東地方の支配を進めようとしており、その手段として「三つ鱗」を利用したと言われています。この家紋を使い始めたのは氏康の父、氏綱の代からで、初代の北条早雲こと伊勢盛時は伊勢氏の家紋である「対い蝶紋」を使用していました。

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また、後北条氏が使った「三つ鱗」の形状は二等辺三角形となってますが、これとは別に正三角形の「三つ鱗」紋も存在します。

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左側の正三角形の「三つ鱗」は、鎌倉時代に活躍した北条氏(特に得宗家)が使用したと言われる一方、右側の二等辺三角形の「三つ鱗」は後北条氏や得宗家以外の北条氏が使用したと言われています。ただ得宗家が二等辺三角形の「三つ鱗」を使用した形跡も残っており、その使い分け方は厳密なものではなかったとする説もあります。

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この記事のまとめ


北条氏康がどんな人だったのかを、年表や後北条氏の家紋と共にご紹介しました。

相模の獅子」と呼ばれた氏康は後北条氏の三代目としてその領土を拡大すると共に、同世代の名将である武田信玄や上杉謙信相手にも一歩も引かず、領国の統治に力を注ぎ多くの人々から慕われました。これを達成できた背景の1つに、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の家紋を利用して、その名声を大いに利用した事があったのは間違いないでしょう。