貼り付けた画像_2017_02_17_23_39 17年10月から放送開始予定の朝ドラ「わろてんか」は、吉本興業の創業者である吉本せいの生涯が原作の土台となっています。

では、この吉本せいとは一体どのような女性だったのでしょうか。

吉本興業発展に尽力した2人の弟を交えながら、吉本せいという人物についてご紹介します。

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吉本興業の創業者、吉本せいとは?夫は遊び人だった!?


吉本興業の創業者である吉本せいは1889年、兵庫県の米商人の3女として産まれました。20歳の時には大阪にある「箸吉」という問屋の次男、吉本吉兵衛(よしもときちべえ)と結婚しており、旧性の「林」を夫の性である「吉本」と改めています。

この吉本吉兵衛、今で言う遊び人であったらしく、当初の結婚生活は苦労の連続だったようです。吉本興業の設立も、芝居などの芸事が大好きな夫に対して「そんなに芸が好きなら一緒にそれを仕事にすればいいじゃないの?」と懇願するような感じだったのだとか。

当時、大阪の芸事は落語がメインでした。一方でせいは、落語以外の芸事(剣舞、モノマネ、歌、琵琶)に目を付けます。こうした芸のプロに自分の劇場に出演してくれるよう提案し、肝心のお客さんに対しては安価な料金で自分たちの劇場である「文芸館」の入場をOKします。これが大受けし、文芸館にお客さんが途切れる事はありませんでした。

こうしたせいの頑張りが実り、遊び人の夫、吉兵衛も働くようになります。一説によると、その後の吉兵衛は経営者として1923年になくなるまで積極的にリーダーシップを発揮。せいは裏方に徹し、出演する芸人達を時には発破をかけ、また時には親切に接し、やがて「おせいさん」という愛称で親しまれるようになりました。

晩年には会社経営を2人の弟たちに任せる一方で、慈善活動にも力を注ぎ、紺綬褒章などの勲章を授かるようになりました。一方で8人の子供に恵まれるもその多くは若くしてなくなっており、成人した次男の吉本穎右(えいすけ)が24歳の若さでなくなった事を機に隠居。1950年に62歳でなくなっています。

吉本せいの弟、林正之助とは?


そんな吉本せいが創業した吉本興業ですが、彼女の死後はその2人の弟が経営に携わる事になります。その中でも長弟の林正之助(はやししょうのすけ)は18歳の時から姉の事業を助け、後に吉本興業の2, 4, 7代目の社長として日本のお笑い界に多大な影響を与えた人物です。もう少し詳しく見ていきましょう。

正之助は1899年に姉と同じ兵庫県明石市で産まれ、吉本へ入社後は本拠地である大阪で吉本の発展に尽くしました。その活躍はお笑い界だけに留まらず、1933年には社内で映画事業を立ち上げ、その5年後には東宝の取締役になっています。また1934年には後の読売ジャイアンツの元となった第日本東京野球倶楽部の設立に参画する一方で、1968年にはレコード会社乗っ取りの容疑で逮捕された経歴を持っている事でも知られています。

正之助の性格は大胆不敵で、また若い頃から服装には拘っており、お気に入りの芸人には自分のネクタイをプレゼントする一面もあったのだとか。また生涯を通して数多くのスターを育成し、現在でも残る数多くの劇場を開設するなど、吉本興業の実際の経営を一手に担っていた事でも知られています。

1991年に92歳でなくなる直前まで、正之助は社長として会社の運営を指揮し続けてきました。また、娘(林マサ)の夫には1999年に吉本興業の9代目社長になった林裕章(はやしひろあき)がいます。裕章は2002年に吉本を経団連入りさせるなど手腕を発揮しましたが、その3年後に惜しまれながらなくなっています。

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もう一人の弟、林弘高と正之助の対立とは?


また、吉本せいを助けたもう一人の弟に林弘高(はやしひろたか)という方がいます。後に東京吉本(吉本株式会社)の社長となり兄の正之助とは異なった路線で会社を発展させた人物なのですが、以下で詳しくご紹介します。

林弘高が産まれたのは1902年なので、兄の林正之助とは3歳、姉の吉本せいとは13歳離れています。18歳で吉本に入社した兄とは異なり、弘高は東京に出て中央大学を卒業。こうした経歴から1932年、吉本興業の東京支社長を任される事になります。

「吉本」と言うと大阪のイメージを持たれてる方も少なくないと思いますが、この会社は大正時代の終わり頃から東京にも拠点を構えていました。そして32年以後は大阪吉本を兄の林正之助が、東京吉本を弘高が担当し、創業者である吉本せいが2人の弟の上に居る体制が構築されたと言われています。

もっとも、この東京吉本は表向きは大阪吉本の東京支社という位置づけでしたが、実際は「吉本株式会社」という全く別の会社だったと言われています。その背景には弘高と正之助の対立があり、やがて1946年に弘高は大阪吉本から明確に独立する意志を示しています。

1963年には、大阪吉本を率いていた正之助が体調を崩したため、弘高が吉本興業の社長に就任しています。その7年後には弘高が逆に体調を崩したため正之助が社長に就任しているのですが、この相次ぐ社長交代劇の中で、広高に近い社員と正之助に近い社員の対立も発生したと言われています。

最終的には、吉本興業の主導権を握ったのは兄の正之助であり、また弘高率いる吉本株式会社も経営悪化によって昭和40年代頃に会社更生法を申請するに至っています。弘高も1971年(昭和46年)になくなっており、吉本が東京に進出するのは1980年を待つ事になりました。

余談ですが、弘高は社会党の活動に携わっており、また共産党員をサポートする等、資本主義の権化としての経営者とは違った一面を持った人物でもありました。彼が率いた東京吉本はダンスやジャズを軸とするショービジネス的な要素が強く、いわゆる「お笑い」とは毛並みが少し違っていたと言えるでしょう。最も現在の吉本興業も、AKB48の派生グループであるNMB48の創設に携わる等、こうしたショービジネスに力を注いでいる面もありますけどね。

この記事のまとめ


吉本興業の創業者である吉本せいという女性について、2人の弟(林正之助、林弘高)も交えつつ解説してきました。

当時、落語が全盛期であった大阪において、吉本せいは漫才を重視する戦略を採用。これが大当たりした事で「吉本が落語を衰退させた」という声もあった程です。また吉本と言えば「大阪」「お笑い」という言葉を思い浮かべる方が多いと思いますが、彼女の弟である林弘高率いる東京吉本がショービジネスを展開するなど、決してそうではない所にこの会社の興味深い点があると言えるのではないでしょうか。

2017年後期の朝ドラ「わろてんか」では、吉本せいをモデルとしたヒロイン、藤岡てんが活躍します。このドラマの放送を機に、吉本興業の歴史を見てみるのも面白いと思いますよ。

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