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徳川家康の正室でありながらも、謀反の罪を着せられてしまった瀬名姫(築山殿)ですが、果たしてどのような人物だったのでしょうか。彼女の生涯を年表を使って解説すると共に、「悪女」と称されるその性格の実像にも迫ります。

また、瀬名姫(築山殿)の二人の子供についてもまとめてみました。
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瀬名姫(築山殿)の生涯を年表を使って解説!


まずは瀬名姫(築山殿)の生涯を年表にしてまとめてみました。


・1542年
今川家の重臣、関口親永(せきぐちちかなが)の娘として生まれる。

・1557年
松平元信(後の徳川家康)と結婚する。

・1559年
長男の松平信康を出産する。

・1560年
長女の亀姫を出産する。
桶狭間の戦いによって、今川義元が討死する。

・1562年
夫の松平元康(徳川家康)が、織田信長と同盟を結ぶ。(清洲同盟)
父親の関口親永が今川氏真の怒りを買い切腹させられる。
瀬名姫(築山殿)は家康の岡崎に戻るが、城に入る事は許されなかった。
(家康の母親、於大の方との関係が悪かった為とされる)

・1567年
信康が、織田信長の娘・徳姫と結婚する。

・1570年
岡崎城への入城を許可される。
家康が、居城を岡崎城から浜松城へ移す。

・1579年
徳姫が父・信長に、瀬名姫(築山殿)に関する「十二カ条の弾劾文」を送る。
家康は瀬名姫(築山殿)を殺害する決意を固める。
8月29日、小藪村にて家康の家臣野中重政によって殺害される。
9月15日には、嫡男の信康が二俣城で切腹する。

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余談ですが、瀬名姫(築山殿)を殺害した野中重政という武将はその後、家康の家臣を辞めて故郷へ隠居したと言われています。その後の野中家ではろう者の娘が二人産まれたため、重政の孫にあたる野中重羽は築山殿の廟前に灯籠をともし、その慰霊に務めたとされています。いかに主君の命だったとは言え、自分がした事に大きな罪を感じていたのでしょうか…。

瀬名姫(築山殿)と家康の子供について解説


さて、瀬名姫(築山殿)は家康との間に嫡男の信康、長女の亀姫の一男一女を産んでいます。

嫡男の松平信康は武勇に優れていたとされ、1573年に初陣を果たすと、その2年後の長篠の戦いなどで多くの功績を挙げていますが、1579年、家康の命により切腹させられています。妻の徳姫との間には二人の娘が産まれていて、それぞれ小笠原秀政と本多忠政といった譜代大名に嫁いでいます。ただし男子は産まれておらず、この事が徳姫との関係悪化を招いたという説もあります。

瀬名姫のもう一人の子ども、亀姫は家康と同じ三河の武将・奥平信昌に嫁ぎ、四男一女を産みます。夫の信昌はその後、関ヶ原の戦いでの働きが認められ、美濃加納藩10万石の藩主に。亀姫も領地で66歳まで生きます。

その一方、亀姫は「家康の長女」として徳川家内での存在感は大きく、家康の側近として腕を振るった本多正純が失脚した際の裏には亀姫の姿があったと言われています。そんな亀姫に対して、夫の信昌はひとりも側室を置かなかった(置けなかった?)と言われています。

瀬名姫(築山殿)の性格は本当に悪かったのか?


ところで、瀬名姫(築山殿)の性格はしばしば「悪女であった」と言われています。
その理由はどこにあるのでしょうか?

上で説明しましたが、瀬名姫(築山殿)は嫡男の信康が徳姫との間に女の子しか産まれず、跡継ぎになる嫡男がいなかった事を気にかけていたと言われています。このため、自分の侍女を側室として信康のもとに送り込んだとされているのですが、それが原因で徳姫との仲が悪くなったという説もあります。

ただこれだけを見ると、瀬名姫(築山殿)はおせっかい焼きな性格だったのではとしか思えません。それだけで彼女を悪女呼ばわりは出来ませんよね。

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彼女の性格が悪いと言われる原因は、徳姫が父・信長に出した手紙「十二カ条の弾劾文」にあります。

その中で、瀬名姫(築山殿)の性格に関するものだけをまとめてみると…

・瀬名姫が自分と信康の仲を裂こうとしている
・瀬名姫が女子しか産んでいない自分に乱暴する
・瀬名姫は贅沢三昧をしている
・瀬名姫は甲州の唐人医師・減敬と密会している
・瀬名姫は武田勝頼と通じ、織田と徳川を滅ぼそうとしている


このように、性格悪いと言われても仕方がない内容ばかりでした。

これが発端となり、1579年信長は、家康に瀬名姫・信康親子を殺すよう命じます。家康は信康に切腹を言い渡し、瀬名姫を部下の手で殺害してしまいました。瀬名姫は40歳手前だったと推測されます。徳姫は子供を残して実家に戻り、二人の女の子は家康の手で育てられます。

これだけ見ると、「性格が悪いのはむしろ徳姫じゃないの?」という気もしますよね。

しかし実は、この話は江戸時代になって書かれた『三河物語』に載っているお話なのです。『三河物語』は戦国の世を生き抜いた家康の家臣、大久保彦左衛門が、徳川家と大久保家の歴史をつづったもの。徳川家、特に家康にとって都合の悪いことは書きません。「瀬名姫と信康は、信長とその娘に殺されたようなもの。二人の所業も目に余るものだった。家康さまは悪くない」というスタンスです。

そして更に、「十二カ条の弾劾文」が存在したのか、徳姫と瀬名姫(築山殿)の仲は本当に悪かったのかという話も明らかではないのです。この事件、最近では家康と信康の仲たがいが原因で、信長は無関係だとする説が浮上しています。少ないかも瀬名姫(築山殿)の性格は悪かった、と安易に決めつけるのは早計ではないかと思います。

この記事のまとめ


瀬名姫(築山殿)の生涯を年表を使って解説すると共に、その子供や性格についてもご紹介しました。彼女の性格は、後世の記述によって書き換えられている面も少なくなく、実際の人柄はもう少し別なものだったのではないかと感じます。

ただ今川一族として、織田方についた夫を彼女がどう見ていたのかも気になりますね。戦国の世の習いとして諦めていたのか、それとも本当に信康ともども武田と通じていたのか…。真実は闇の中ですが、戦国時代は結婚もまた戦なのだと思うと哀れに感じます。

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