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江戸幕府を開いた徳川家康は、その生涯で何度か改名をしています。

特に、彼のもともとの名字は「松平」であり、徳川というのは後に名乗った姓になります。
では、家康はなぜ姓を松平から徳川へと改めたのでしょうか。

江戸時代の松平家と徳川家の関係、そしてその家紋の違いについても解説します。
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徳川家と松平家はどのような関係にあたるのか?


まずは徳川家と松平家の関係を、簡単に見てみましょう。

松平家はもともと、三河国の加茂郡にある松平郷(今の愛知県豊田市松平町あたり)という場所をを治める在地勢力だったとされています。室町幕府8代将軍・足利義政の時代に生きた三代目当主の松平信光には男子が11人もおり、跡継ぎ以外を分家させました。松平元康(のちの徳川家康)は信光から6代後の松平家当主です。

1566年、松平元康は「徳川家康」と名を改めますが、ほかの分家は松平家のままでした。
その後、家康は戦国の世を終わらせ、江戸幕府を開いて征夷大将軍=将軍に就任します。

以後、「徳川」の姓を名乗ることができるのは家康の直系のみ。
結果的には以下の家だけが名乗ることができました。

●徳川将軍家
●尾張・紀伊・水戸の「御三家」
●田安・一橋・清水の「御三卿」



松平家の中で、選ばれた家だけが徳川姓を名乗れる、と言ったところでしょうか。



一方、「松平」姓を名乗った家は、大きく分けて次の3つに分かれます。


十八松平家

戦国時代、家康よりも前の世代に松平の当主=本家から分家した家の事です。
家康が松平家当主になったころには、こうした分家が十数家ありました。


将軍の兄弟が分家して「松平」を名乗ったパターン

家康以降、将軍の兄弟が分家して「松平」姓を名乗った例は3つあります。

「越前松平家」…2代将軍家忠の異母兄・結城秀康による分家
「会津松平家」…3代将軍家光の異母弟・保科正之による分家
「越智松平家」…6代将軍家宣の弟・松平清武による分家

また、家康の女系男子や御三家からの分家「御連枝」が松平姓を名乗ることもありました。


将軍が外様大名に「松平」姓を与えるパターン

前田氏、島津氏、伊達氏など、有力外様大名13家に「松平」が与えられています。例えば薩摩の島津家の場合、「松平薩摩守」という風に名乗っており、公式の文書でこの表記が使われる事がありました、もっとも、こうした外様大名は、もとの姓を捨てたわけではありません。

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徳川家と松平家、家紋の違いはあるの?


徳川家の家紋といえば、時代劇などでもおなじみの「丸に葵紋」ですね。松平家は戦国時代から葵の紋を使い、ほかにもデザイン違いで葵を使った家紋をを持つ戦国大名は存在しました。

しかし、徳川家康は江戸幕府を開いたあと、将軍の権威を高めるために徳川家以外の大名に葵紋の使用を禁止します。基本的には「丸に葵紋」は、徳川姓を名乗る将軍家・御三家・御三卿の家紋とされました。


松平家に対しても葵紋の使用を差し控えるように言い渡します。越前・会津・越智松平家や御三家の分家である御連枝は、御三家・御三卿に次ぐ“親戚筋”になりますが、葵紋を使えたのは会津・越前松平家ぐらいでした。

また、ひと口に「丸に葵紋」と言っても、それぞれの家で葉の模様や茎の太さが異なるなど、デザインに違いがあります。また、将軍家の葵紋も時代とともに葉の模様に変化がみられます。


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徳川将軍家(初期)

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徳川将軍家(後期)

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水戸徳川家

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会津松平家

※参照:三英傑の家紋について。信長、秀吉、家康が使った家紋とは?

家康が姓を松平から徳川に改めた理由とは?


では、そもそもなぜ家康は姓を松平から徳川へと改めたのでしょうか。

家康は1566年、三河国の支配者の証である「三河守」の官職を得るために、姓を「松平」を「徳川」に改めたと言われています。この「三河守」は朝廷からもらう役職ですが、こうした官職を朝廷からもらえるのは、源氏・平氏・藤原氏など限られた氏族のみでした。

そこで家康は、祖父・松平清康が「松平家は清和源氏の新田氏の支流・世良田氏の末裔」と称していたことをヒントに「世良田氏の末裔です」と朝廷に報告します。しかし朝廷は「源氏の世良田氏が三河守に任じられた前例はない」という事を理由に、家康の三河守就任を却下します。

困った家康は、公家の近衛前久に相談します。すると近衛前久は「松平家の祖とされる世良田義季は、得川氏を名乗っていたことがある。また、得川氏は源氏と藤原氏の2系統に分かれた」という系譜を持ち出してきました。家康はこの系譜を利用し「松平氏から、藤原氏系統の得川氏に姓を“戻す”」という苦肉の策を考え、なんとか三河守に叙せられたのです。

そして同時に「得」を佳字(縁起のいい字)の「徳」に変える事で「徳川」という姓を名乗ることも認められたのです。その後、1592年ごろには藤原氏の系統から、祖父の清康が自称していた「源氏系統」に戻しています。

この記事のまとめ


徳川家と松平家の関係や家紋の違い、家康が姓を改めた理由をご紹介しました。

徳川家と松平家の間には、「将軍に連なる者」と「その他の親戚」という大きな差があったのです。また、血筋のうえでは無関係の有力大名に「松平」姓を与えることで、親戚のように信頼していると恩を売るなど、「松平」姓は政治的にも利用されたと言えるでしょう。

また、家康が姓を松平から徳川へと変えたのは、三河守就任を目指した目まぐるしい努力があったのですね。当時の家康の領国は三河国一向一揆が勃発して間もない時期であった事から、この余波を鎮めるといった思惑もあったのだと考えられます。

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