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江戸幕府を開いた徳川家康は、その生涯で何度か改名をしています。

特に、彼のもともとの名字は「松平」であり、徳川というのは後に名乗った姓になります。

では、家康はなぜ姓を松平から徳川へと改めたのでしょうか。

江戸時代の松平家と徳川家の関係、そしてその家紋の違いについても解説します。
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徳川家と松平家はどのような関係にあたるのか?


まずは徳川家と松平家の関係を、簡単に見てみましょう。

松平家はもともと、三河国の加茂郡にある松平郷(今の愛知県豊田市松平町あたり)という場所をを治める在地勢力だったとされています。

室町幕府8代将軍・足利義政の時代に生きた三代目当主の松平信光には男子が11人もおり、跡継ぎ以外を分家させました。松平元康(のちの徳川家康)は信光から6代後の松平家当主です。

家康以前の松平家の家系図は以下のwikipediaの図がわかりやすいです。
親戚がたくさんいる事がわかりますね。

※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/松平氏#松平宗家の歴代当主と諸分家


1566年、松平元康は「徳川家康」と名を改めますが、上記の図で挙げられているほかの分家は松平家のままで、徳川を名乗る事はありませんでした。

その後、家康は戦国の世を終わらせ、江戸幕府を開いて征夷大将軍=将軍に就任しますが、「徳川」の姓を名乗ることができるのは家康の直系のうち、以下の家だけでした。

●徳川将軍家
●尾張・紀伊・水戸の「御三家」
●田安・一橋・清水の「御三卿」


松平家の中で、選ばれた家だけが徳川姓を名乗れる、と言ったところでしょうか。

※参照:徳川御三家の現在とは。尾張・紀伊・水戸の末裔はどんな人?

「松平」を名乗った家を3パターンに分けて解説


一方、「松平」姓を名乗った家は、大きく分けて次の3つに分かれます。

十八松平家

十八松平家とは、戦国時代、家康よりも前の世代に松平の当主=本家から分家した家を指します。
上記の図に乗っている家康より上の世代の分家が当てはまりますが、どの家を「十八松平」に含めるかは諸説あります。

これら分家のうち岩津家、西福釜家、鵜殿家は断絶してますが、その多くは江戸時代大名や旗本として存続し、現代に至るまでその系統を残している家も少なくなりません。

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家康の男系子孫が「松平」を名乗ったパターン

続いては、家康の子供や孫の系統にあたる人物が「松平」名乗ったパターンです。

まずは家康の次男、結城秀康の子供たちのケース。

・津山松平家:秀康の長男、忠直の家系
・越前松平家:秀康の次男、忠昌の家系
・松江松平家:秀康の三男、直政の家系
・前橋松平家:秀康の五男、直基の家系
・明石松平家:秀康の六男、直良の家系

秀康の家系の人々は、「徳川宗家の兄の系統」という意識を持っていたそうです。自分たちは別格、と思っていたのかも。


続いては2代将軍秀忠以降、将軍の兄弟が分家して「松平」姓を名乗った例です。

・会津松平家:3代将軍家光の異母弟・保科正之による分家
・越智松平家:6代将軍家宣の弟・松平清武による分家

ちなみに会津藩は正之と2代目藩主は「保科」を名乗っていましたが、3代目藩主・正容(まさかた)が松平姓を許されたことで、以後松平姓を名乗っています。


これ以外は、家康の女系男子や御三家の分家である「御連枝」が松平姓を名乗ることもありました。
前者の例は、家康の長女・亀姫が嫁いだ奥平信昌の四男・忠明が「松平忠明」と名乗ったケースが、後者の場合は水戸徳川家の初代当主・頼房の長男である松平頼重が興した高松松平家が挙げられます。

※参照:徳川家康の5人の娘について。亀姫、督姫、振姫の生涯とは?

将軍が外様大名に「松平」姓を与えるパターン

前田氏、島津氏、伊達氏など、有力な外様大名に「松平」姓が与えられるケースもありました。

例えば薩摩の島津家の場合、「松平薩摩守」という風に名乗っており、公式の文書でこの表記が使われる事がありました、

もっとも、こうした外様大名は元々の姓を捨てた訳ではなく、大政奉還によって江戸幕府が終了した後は、もとの姓に戻しています。

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徳川家と松平家、家紋の違いはあるの?


徳川家の家紋といえば、時代劇などでもおなじみの「丸に葵紋」ですね。松平家は戦国時代から葵の紋を使い、ほかにもデザイン違いで葵を使った家紋をを持つ戦国大名は存在しました。

しかし、徳川家康は江戸幕府を開いたあと、将軍の権威を高めるために徳川家以外の大名に葵紋の使用を禁止します。基本的には「丸に葵紋」は、徳川姓を名乗る将軍家・御三家・御三卿の家紋とされました。

松平家に対しても葵紋の使用を差し控えるように言い渡します。越前・会津・越智松平家や御三家の分家である御連枝は、御三家・御三卿に次ぐ“親戚筋”になりますが、葵紋を使えたのは会津・越前松平家ぐらいでした。


また、ひと口に「丸に葵紋」と言っても、それぞれの家で葉の模様や茎の太さが異なるなど、デザインに違いがあります。

将軍家の葵紋も時代とともに葉の模様に変化がみられます。

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徳川将軍家(初期)

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徳川将軍家(後期)

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水戸徳川家

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会津松平家

※参照:三英傑の家紋について。信長、秀吉、家康が使った家紋とは?

家康が姓を松平から徳川に改めた理由とは?


では、そもそもなぜ家康は姓を松平から徳川へと改めたのでしょうか。

家康は1566年、三河国の支配者の証である「三河守」の官職を得るために、姓を「松平」を「徳川」に改めたと言われています。
この「三河守」は朝廷からもらう役職ですが、こうした官職を朝廷からもらえるのは、源氏・平氏・藤原氏など限られた氏族のみでした。

そこで家康は、祖父・松平清康が「松平家は清和源氏の新田氏の支流・世良田氏の末裔」と称していたことをヒントに「世良田氏の末裔です」と朝廷に報告します。
しかし朝廷は「源氏の世良田氏が三河守に任じられた前例はない」という事を理由に、家康の三河守就任を却下します。

困った家康は、公家の近衛前久に相談します。

すると近衛前久は「松平家の祖とされる世良田義季は、得川氏を名乗っていたことがある。また、得川氏は源氏と藤原氏の2系統に分かれた」という系譜を持ち出してきました。
家康はこの系譜を利用し「松平氏から、藤原氏系統の得川氏に姓を“戻す”」という苦肉の策を考え、なんとか三河守に叙せられたのです。

そして同時に「得」を佳字(縁起のいい字)の「徳」に変える事で「徳川」という姓を名乗ることも認められたのです。その後、1592年ごろには藤原氏の系統から、祖父の清康が自称していた「源氏系統」に戻しています。

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この記事のまとめ


徳川家と松平家の関係や家紋の違い、家康が姓を改めた理由をご紹介しました。

徳川家と松平家の間には、「将軍に連なる者」と「その他の親戚」という大きな差があったのです。また、血筋のうえでは無関係の有力大名に「松平」姓を与えることで、親戚のように信頼していると恩を売るなど、「松平」姓は政治的にも利用されたと言えるでしょう。

また、家康が姓を松平から徳川へと変えたのは、三河守就任を目指した目まぐるしい努力があったのですね。当時の家康の領国は三河国一向一揆が勃発して間もない時期であった事から、この余波を鎮めるといった思惑もあったのだと考えられます。