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築城の名手として知られる藤堂高虎
黒田官兵衛、加藤清正と並んで「三大築城名人」とも言われています。

また主君を何度も変えた武将としても有名で、都合7度も主を変えた彼は「変節漢」として扱われることが多い武将です。しかしながら徳川家康の信頼は厚く、外様でありながら譜代の家臣並みの厚遇を受けた藤堂高虎。

この少し変わった戦国武将・高虎の妻は?家臣は?そして子孫は…?

高虎を取り巻く人物たちについて紐解いて行けば、もしかすると、この戦国の変節漢の本当の姿が垣間見えてくるかもしれません…。

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藤堂高虎の妻はどんな女性だったのか?


実はこの藤堂高虎、非常に妻を大事にした武将として有名なのです。

藤堂高虎の正室の名は「久芳院」と言い、一色義直の娘と言われています。
高虎は1581年、豊臣秀長に従い但馬征伐に赴いた際に、丹後国(今の京都府北部)を治めていた一色家の一族、義直の忘れ形見で、香住中野村の農家に身を寄せていた久芳院を娶りました。彼女の父の一色義直については、不確かな部分が多いのですが、おそらく何らかの事情で但馬に落ち延びたのでしょう。

しかし久芳院と高虎の間には子が授かりませんでした。この時代、嫡子がいないことは大問題です。周囲は側室を迎えるよう勧めます。しかし高虎は夫婦仲が良かったため、なかなか側室を迎えようとはしません。
そしてついには、秀吉から丹羽長秀の子を養子に迎えるように勧められます。

久芳院は高虎の愛情がわかっているだけに心苦しく思います。
そして自ら、夫に側室を迎えるように勧めるのです。

久芳院が高虎のもとに嫁いでから18年たった1599年、高虎は友人の勧めにより長連久の二女・まつを側室として迎えることになるのです。このまつが高虎の二人目の妻にあたります。

一説にはこのまつ(後の松樹院)は但馬国の林甫城の主、長越前守連久の二女として生まれましたが、先の但馬征伐で長氏は没落します。諸国を放浪の末、因幡国鳥取城主である宮部継潤の側室として迎えられますが、継潤の死後、宮部家を追われたのち大阪で遊女に身を落としていたのだそうです。

まつの半生を不憫に思った高虎は、国元の正室・久芳院の承諾を得たうえで彼女を側室として迎えることとしたのです。この松樹院との間に高虎は後の高次をはじめ3人の子宝に恵まれました。

正室・久芳院を心から大切に思う高虎と、自分の立場より夫の武将としての立場を案じていた久芳院の間には、しっかりとした絆があったのでしょうね。

藤堂高虎の家臣にはどのような武将がいたのか?


それでは、藤堂高虎の家臣にはどのような武将がいたのでしょうか。

高虎は自らが度々主君を変えたように、家臣を持つことに頓着がなかったといわれ、暇を願い出るものがあればそれを許し、帰参を願い出るものはそれを認めたといいます。そのような面を持ちながらも、人を「人材」と考えている面も持ち合わせており、当時としてごく普通にあった「追い腹」(主がなくなった際にその後を追って巡視すること)を禁じたとも言われます。

具体的な人々について見てみましょう。藤堂家は高虎の代で発展しただけあって、家臣も多くは一族、そして高虎によって召し抱えられた者が中心となります。中でも高虎草創期以来の功臣には一族以外にも「藤堂姓」が下賜されました。もちろんその一族も「藤堂姓」を名乗っています。

藤堂高吉」は丹羽長秀の子で、先に触れた秀吉により養子にと勧められた経緯のある人物です。側室・松樹院との間に高次が生まれたため、改めて高虎の家臣となりました。その経緯から高虎に疎んじられ、次代の高次にも冷遇されたようですが、関ケ原の戦いや大坂の陣でも活躍し、さらに今治城の城代として名張川の治水などに手腕を発揮、地元では今も名君とされています。名張藤堂氏の祖です。

藤堂高刑」は高虎の甥にあたります。元の姓は鈴木といいました。関ケ原の戦いでは大谷吉継の家臣・湯浅五助を討ち取ります。五助は自害した主・吉継から“自分の首級を隠す”ように言われており、引き換えとして高刑に自らの首を差し出したのです。高刑は家康から吉継の首について問われても頑なに隠し通したそうです。この後、大坂夏の陣で戦死します。子孫は代々、津藩の城代家老を務めました。

高虎の家臣の中には、旧浅井家出身の者もいます。「藤堂家信」は浅井旧臣・磯崎家の出で藤堂姓を与えられた人物です。父親が高虎と旧知の間柄でその縁で藤堂家に仕えました。朝鮮の陣以降、関ケ原の戦い、大坂の陣で活躍します。大坂夏の陣で重傷を負った際は家康より薬を与えられたといい、現代まで伝わっています。

一度出奔した家臣に寛容だったといわれる高虎ですが、「渡辺了」の場合は違いました。もともと関ケ原の戦い以前は西軍の増田長盛に仕えていたのですが、戦後に藤堂家に仕えます。力量を買われてのことであったのですが、その後の大坂の陣で高虎と対立、命令違反を犯すなどしたのちに出奔してしまいます。他家に仕官しようとしたのですが、藤堂家から「奉公構(他家に仕官させないようにする願い)」が出されており、叶わなかったといいます。

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藤堂高虎の子孫はその後どうなったの?


それでは、藤堂高虎の子孫はその後どうなったのでしょうか?

津藩の初代藩主となった高虎は1630年に病で亡くなり、そのあとを嫡男の藤堂高次が継ぎます。高次の時代は江戸城や家光の霊廟などの普請が相次ぎ、津藩(藤堂家)も石垣普請を負担するなど、財政は極端に悪化したといいます。高次は財政改革を行うなどして改善を試みますが、一方でその後も幕府の普請の負担を積極的に行ったため、さらなる財政悪化を招いたといいます。

高次の後を継いだのはその子・高久でした。高久には子がなかったため末弟の高睦に家督を譲りました。しかし実子はなく、家督を支藩の久居藩より、高次の孫にあたる高敏を継ぎました。
そのため、高虎の直系子孫が津藩の家督を継いだのは、この5代までとなります。

しかしその後も、藤堂一族は家督を継承し続けて幕末を迎えます。

戊辰戦争が始まると当時の当主・藤堂高猷はその緒戦、鳥羽伏見の戦いに「幕府方」で参戦しました。しかし戦闘が始まると新政府側に寝返りました。俗説ではありますがこのことを指して「津藩は藩祖の教えがよく受け継がれている」と言われたそうです…

現在の藤堂家の投手は15代目の藤堂高正さんです。また、ボートレーサーの藤堂里香さんも藤堂高虎の末裔に当たる事で知られています。

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この記事のまとめ


今回は「藤堂高虎をとりまく人々」というテーマで、高虎の妻や家臣、その子孫についてご紹介しました。

藤堂高虎は主君を度々変えた走狗、変節漢として否定的に描かれることが多い人物ですが、彼を取り巻く人々との関わりを見てゆくと決してそれだけではないことがわかります。

主君を変えることが悪徳とされたのは江戸時代以降、儒学の教えが広まってからのこと。戦国の乱世にあってはよくある話でした。むしろ高虎は、豊臣秀長や家康といった優れた主君に出会うまで、仕えるべき主に恵まれなかった「苦労人」であったのかもしれません。