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「甲斐の虎」と呼ばれた武将・武田信玄

ドラマ、小説、ゲームにも何度も取り上げられ、その人気の高さは今も昔も不動ですね。
「風林火山」の旗や戦国最強と言われた騎馬軍団など、信玄にまつわる魅力的なエピソードが人気の秘密なのでしょう。

今回は、信玄のプロフィールや「風林火山」の意味、その強さについて解説します。
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武田信玄ってどんな武将?プロフィールをわかりやすく解説!


まずは武田信玄のプロフィールをご紹介します。

武田信玄は1521年に、甲斐国(現在の山梨県)の守護・武田信虎の嫡男として生まれました。「信玄」というのは出家してからの名前で、産まれた頃は勝千代、1536年に元服してからは晴信と名乗ります。(以後、信玄で統一)

信玄が生まれたのは、甲斐国内の各勢力が争うなか、父・信虎によって国が統一された頃でした。信玄は1541年、家来たちと共に父を駿河へと追放し武田家の家督を継承します。その背景には、信虎が次男・信繁を溺愛したこと、領民に対して隣国へ戦をするための軍役や凶作の際に重税を課したこと、あるいは信虎の同意を得た上での隠居だったなど、信虎追放の理由については諸説あります。

武田家の当主となった信玄は、駿河(今の静岡県東部)の今川義元、相模(神奈川県)の北条氏康と同盟関係を結んだり、破棄したりしながら、周辺諸国へと侵攻を進めていきます。その中でも特に有名な上杉謙信の5度にわたる川中島の戦いとは、信濃北部をめぐる争いでした。結局、決着がつかないまま終わりましたが…。

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こうした戦いの結果、信玄が50歳になるころには甲斐国のほか、北は信濃(長野県)の北部を除く地域、東は上野国(群馬県)西部、南は駿河国、遠江国の一部、三河国の一部、西は美濃国の一部、飛騨国の一部を手中に収めていました。

しかし、彼の前に立ちふさがったのが織田信長。足利義昭を将軍に置き、すでに畿内を支配下に置いていた信長の台頭に、信玄は大きな危機感を抱いていたといわれています。1572年、信長と対立した足利義昭の求めに応じ、信玄は3万の兵を率いて京へ上ることを決めます。西へ兵を進める途中、遠江の三方ヶ原で徳川家康と戦になります。信玄の半分以下の兵力で戦いを挑んだ家康は敗れ、浜松城へ逃れました。信玄はそのまま三河国へ入りますが、野田城を攻め落としたところで西進を止めてしまいます。

※参照:三方ヶ原の戦いを簡単に解説。徳川家康の敗因とは?

じつは信玄には若いころから肺の持病があり、この戦で病が悪化したといわれています。あるいは、野田城を攻めた際に受けた鉄砲傷が悪化したとの説もあります。いずれにせよ、信玄の身に何かが起こり、退却したことは確かでしょう。信玄の兵は京へ向かうことなく、甲斐へと帰っていきました。翌1573年、甲斐へと帰る途中、信濃国で信玄は亡くなりました。

信玄の旗印「風林火山」の意味とその出典について!


ところで、武田信玄と言えば「風林火山」の四文字が有名ですよね。2007年には同名の大河ドラマが放送されているので、見覚えのある方もいるかもしれません。

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※参照:http://dic.nicovideo.jp/a/風林火山


この「風林火山」ですが、信玄の軍旗に書かれていたとされる「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の文字の頭文字です。漢文で書かれているこのフレーズは以下のように読みます。

・疾(はや)きこと風の如く
・徐(しず)かなること林の如く
・侵掠(しんりゃく)すること火の如く
・動かざること山の如し



そして、このフレーズの意味を意訳すると以下のようになるでしょうか。

軍を動かすときは、
風のようにすばやく、
林のように悠々と落ち着き、
火のように勢いよく攻撃し、
山のように陣形を崩さない



この「風林火山」の元ネタですが、中国の兵法書『孫子』の以下の部分をもとに作られたといわれています。

・故其疾如風:故に其の疾きこと風の如く
・其徐如林:其の徐かなること林の如く
・侵掠如火:侵掠すること火の如く
・不動如山:動かざること山の如く
・難知如陰:知りがたきこと陰の如く
・動如雷霆:動くこと雷霆<らいてい>の如し


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「知りがたきこと陰の如く」と「動くこと雷霆の如し」が抜けていますね。
旗印にする以上、よりシンプルなものの方が好ましかったのかもしれません。


この言葉が収められている兵法書『孫子』ですが、信玄がなぜ『孫子』を選んだのかも謎です。戦国時代、武将たちが戦の参考書として使ったのは『六韜(りくとう)』や『三略』といった兵法書で、『孫子』はかならずしもメジャーではなかったそうです。信玄が『孫子』を知っていることを誇示したかったのでは?という説もあります。

ちなみに、信玄が生きていたころに「風林火山」という言葉はありません。江戸時代の書物にもこの言葉は存在せず、「孫子の旗」「武田信玄の軍旗」とあるだけです。風林火山という言葉は、信玄を題材にした小説による創作だと言われており、特に小説家の井上靖さんの作品『風林火山』がその出処だと言われています。

武田信玄の強さについて解説。その圧倒的な戦歴とは?


そんな「風林火山」の旗印を率いて闘った武田信玄は生涯72回の戦をして49勝3敗20分。その強さを周辺の大名に見せつけました。信玄の強さについて、長篠の戦いで有名な「武田騎馬軍団」や、信玄が残した言葉などを交えながら考えてみましょう。

武田騎馬軍団は実在したのか?

武田といえば真っ先に思い浮かぶのが騎馬軍団でしょう。信玄の死後、1575年に息子の勝頼と織田信長が戦った長篠の戦いで、武田の騎馬軍団を織田の鉄砲隊が破った話が有名ですね。
この戦いでは「武田四名臣」と称される馬場信春、山県昌景、内藤昌豊など多くの武将が討死しており、武田家はもちろん、後の世に与えた影響は大きかったと言えるでしょう。

※参照:武田四天王(武田四名臣)は実は8人いた?甲陽の五名臣も?

そんな「武田の騎馬軍団」ですが、具体的にどのようなものだったのか、現在も不明なことが多くよくわかっていません。ドラマや映画などでは明治以降の西洋式騎兵隊のような騎馬の大軍団で描かれていますが、戦国時代にそのような軍団があったとは考えにくいのです。

その理由には、たくさんの馬を引き連れて戦場に赴くには大量の飼料と世話をする人間が必要なこと、戦国時代の兵には農民がかなり含まれていて、農民がふだんから馬を維持する財力があったとは考えにくいことなど、いくつか挙げられます。しかし甲斐は名馬の産地として知られており、信玄配下の武将たちがその馬をよく乗りこなし、勇猛果敢に戦ったことは事実でしょう。

100%の勝利はダメ!? 信玄が残した名言とは

また、信玄の戦歴を見ると20回も引き分けた戦がある事にも目が行きます。このエピソードに関して、信玄が述べたとされる名言がありますのでご紹介します。

およそ戦というものは、五分をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす。
五分は励みを生じ、七分は怠りが生じ、十分は驕りを生ず。


当時の戦国大名にとって「負け」とは大切な兵、すなわち部下の武将や領民を失うことですから、損失を最小限に抑える「引き分け」も、勝ちと同じぐらい価値のあるものだったのです。

信玄いわく、「引き分け」であれば次は頑張ろうと思える。7割くらいだと「次も大丈夫だろう」と奢りが生まれる。100%の勝利だと敵を侮ってしまうとの事。これを聞いた上杉謙信は「さすが信玄」と思ったのだとか。
実際、信玄は戦への備えにとても慎重で、「素破(すっぱ)」と呼ばれるスパイを使って各地を偵察させ、情報収集を怠りませんでした。

内政面における信玄の強さとは

信玄の強さは内政面にも見られます。
戦以外の面を見ると、信玄は武田家当主に就任した際、配下の武将たちの話によく耳を傾け、「合議制」によって内政を行いました。1547年には分国法である「甲州法度次第」(こうしゅうはっとのしだい)を制定しています。甲州法度次第には親の負債の相続に関する記載があるのですが、この規定は現在の民法制定時に参考にされるなど、その影響力が伺えます。

また、武田家が本拠としていた甲府盆地には暴れ川がいくつもあり、米の収穫に悪影響を与えていました。このため信玄は釜無川と御勅使川の合流地点である竜王という地に堤防を築き、水害を防ぐと共に新田開発を奨励。農業生産高の向上をはかりました。この堤防は現在も残り、「信玄堤」と呼ばれています。

戦国大名は皆、戦と領国経営をバランスよく行うことに腐心しましたが、信玄はその才覚に恵まれていたのでしょう。

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この記事のまとめ


このページでは武田信玄のプロフィールやその強さ、そして風林火山の旗の意味について、ざっとお伝えしました。

信玄の強さの根本には軍事と内政のバランス感覚があったとも言えますね。
人は城、人は石垣、人は堀」という信玄の言葉にもその一端が見えます。

また、信玄は人気が高い武将の一人だけに、そのエピソードの中には後に脚色された部分もあります。信玄や武田家について調べるうちはその脚色を楽しみつつ、「本当はどうだったのかな…」と思いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。