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図鑑や理科室にある人体模型には、体のことが詳しく描かれていますよね。
これらの人体の仕組みは江戸時代に出版された、『解体新書』(かいたいしんしょ)という医学の本参考にしています。

そして、この本の著者が杉田玄白(すぎたげんぱく)という江戸時代の歴史人物です。
一体どんな人だったのでしょうか。

このページでは、杉田玄白がどんな人だったのかを、年表や玄白が書いた『解体新書』を含めて、小学生の方にもわかりやすい形でご紹介します。

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杉田玄白がどんな人だったのかを小学生向けに解説!


杉田玄白(すぎた げんぱく)とは、一体どんな人だったのでしょうか。
小学生の方にも分かるように簡単にご紹介します。

杉田玄白を一言でいうとお医者さんです。当時、外国との交流がなかった日本で、唯一仲が良かったオランダの医療を学び、その医療で人々の治療をする「蘭方医(らんぽうい)」と呼ばれる仕事をしていました。

1733年に、若狭国小浜藩(現在の福井県の南部)の江戸屋敷で、藩医の子として生まれた玄白は、もともとは小浜藩に仕えていた藩医でした。その後、25歳で東京の町医者になります。この頃、エレキテルで有名な平賀源内(ひらがげんない)や、中津藩(現在の大分県)の藩医の前野良沢(まえのりょうたく)、玄白の後輩にあたる小浜藩の藩医の中川淳庵(なかがわじゅんあん)といった人々との交流も知られています。

その後、玄白はオランダ語を学ぶことで最新の医療を学ぼうとします。そのため、オランダ語の通訳をしていた人からこの言葉を学ぼうとするのですが、その人からオランダ語の難しさを詳しく説明されたので、この言葉を学ぶのを諦めた事もありました。

ですが、オランダの解剖書の『ターヘル・アナトミア』を買い、長崎から帰って来た前野良沢や中川淳庵とともに死刑になった人の解剖を見学して、この書物のあまり正確さに感動します。玄白は早速、『ターヘル・アナトミア』和訳に取り掛かりました。とはいったものの、まだオランダ語の辞書なんてなかったために翻訳は苦労の連続。試行錯誤や訂正を繰り返し、3年間の苦労を重ねて『解体新書』という題名で出版しました。

その後は、自宅に蘭方医の塾の『天真楼』を開校するなど蘭方医の育成に取り組みます。晩年には『解体新書』の翻訳作業がどんなにつらいものだったのかをつづった『蘭学事始』(らんがくことはじめ)を書きました。この本から杉田玄白や、一緒に『解体新書』を作成した前野良沢の苦労話がよく分かります。それでも医療の発展のために、取り組んだ信念は揺らがなかったものですね。

小学生にも分かる!杉田玄白のわかりやすい年表


ここでは杉田玄白の年表を、小学生に分かるように解説します。


・1733年(0歳)
江戸(現在の東京都)に生まれる。

・1752年(20歳)
若狭国小浜藩(現在の福井県の南部)の藩医になる。

・1757年(25歳)
町医者になる。この頃に平賀源内(ひらがげんない)、前野良沢(まえのりょうたく)、中川淳庵(なかがわ じゅんあん)に出会う。

・1771年(36歳)
『ターヘル・アナトミア』を買い、人体の解剖を見学する。
この頃から『ターヘル・アナトミア』の和訳に取り掛かる。

・1774年(39歳)
『解体新書』を出版する。

・1776年(41歳)
自宅に蘭方医の塾『天真楼』を開く。

・1807年(75歳)
家を養継子(家を継ぐために養子に入った息子)に譲り隠居する。

・1815年(82歳)
『解体新書』の苦労話をつづった『蘭学事始』(らんがくことはじめ)を書く。

・1817年(84歳)
弟子たちに見守られながらなくなる。

・1826年
弟子の大槻玄沢(おおつきげんたく)によって、『ターヘル・アナトミア』の完全なる和訳本『重訂解体新書』(じゅうていかいたいしんしょ)が出版される。

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杉田玄白らが書いた『解体新書』は、実は誤訳だらけだったのです。

そのため弟子の大槻玄沢は、玄白と親交があった前野良沢にオランダ語を学び、『解体新書』のミスを訂正しています。この本の原稿自体は玄白がまだ生きている頃にできましたが、いろんな事情が重なって出版されたのは玄白がなくなってから9年後のことでした。

杉田玄白が書いた『解体新書』ってどんな本なのか?


さて、杉田玄白らが書いた『解体新書』とはどんな本だったのでしょうか。

杉田玄白らが書いた『解体新書』は全5巻の本で、1巻から4巻は身体の内部の説明を文章ばかりの内容で、身体の内部の絵は5巻に収められています。
また、『神経』(しんけい)『軟骨』(なんこつ)『動脈』(どうみゃく)などの身体に欠かせない部分は『解体新書』で始めて名前が載った言葉といわれています。

この『解体新書』が出る前は、すでに昔の中国の医者が描いた人体の解剖図がありました。しかし、この図はあまりにも疑わしかったため、当時の医者は人体の中は知らずに適当に薬を処方していたのです。そのため『解体新書』が完成した結果、薬の処方が適切になるなど日本の医療は大幅に進歩しました。

ちなみに、『解体新書』は杉田玄白が清書を行い、前野良沢(まえのりょうたく)という人がオランダ語の翻訳を行っています。この前野良沢という人物ですが、『解体新書』出版後もオランダ語を学び、その語学力はオランダ人でさえもびっくりするほどでした。しかし彼はこの書物が誤訳だらけなのが不満で、『解体新書』の著者名には載っていません。ただ玄白は、弟子の大槻玄沢を前野良沢のところに通わせるなど、交流は続けていたみたいです。何であっても継続することが大事だということがよく分かりますね。

なお、『解体新書』を参考にした本は現在も作られていますが、『解体新書』の原本は岩手県奥州市の高野長英(たかのちょうえい)記念館にあります。
杉田玄白と高野長英は直接の関係はありませんが、高野長英の養父が玄白の弟子だったり、どちらとも学問の発展に尽力した人物だったりなど、何かしら理由があるのかもしれませんね。

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この記事のまとめ


このページでは杉田玄白がどんな人だったのかを、年表や作成した『解体新書』をふくめて小学生の方向けに解説してきました。

『解体新書』の刊行によって、当時の日本人のオランダ語に対する理解度が高まりました。そしてその結果、ヨーロッパの最新の情報や技術に触れる機会も増えていくのです。杉田玄白が成しとげた『解体新書』の発刊は、ただ医療の進歩に貢献しただけではなかったと言えそうですね。