%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2017_01_03_20_41 学問の神様として有名な菅原道真
受験シーズンになると、多くの人が合格祈願をしています。

実際の道真はどんな人だったのでしょうか。このページでは菅原道真が用いたとされる家紋や、百人一首で取り上げられている道真の和歌も踏まえながら、道真の人物像に迫ってみました。

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菅原道真ってどんな人?女性関係も派手だった!?


まずは菅原道真がどんな人だったのか、簡単に見て行きましょう。

「学問の神様」と後世に称されるだけあって、道真の学力は非常に優れていました。18歳の頃、今で言う官僚を養成する学校である「文章生」になっており、この中でも上から2番目の指に数えられる程の成績を収めたと言われています。26歳の頃には「方略試」という難関試験に合格しており、その5年後には学者として最高の位である「文章博士」に任命されています。

こうした経歴を見ると、道真はガリ勉タイプだったのかな?と思う方もいるでしょう。しかし実際の道真は女遊びが大好きで、正室の他に妾を抱えていた一面もありました。道真は正室との間に、家督を継いだ長男の菅原高視(すがわらのたかみ)を授かっているのですが、この他にも男女合わせて少なくとも10人の子供が居たと言われています。また、平安時代きってのプレイボーイとして知られる在原業平との親交があったとも言われています。

ただ政治家として道真は非常には優秀でした。896年に讃岐守に任命された際は善政を行い、多くの人々に慕われていた時期もありました。888年に讃岐国が干ばつに見舞われた際は、道真は雨乞いの為に7日祈った所見事雨が降ったという逸話も残されています。こうした道真のエピソードは、現在も滝宮の念仏踊(たきのみやのねんぶつおどり)として香川県に残されています。

その後、890年に道真は都へ戻り参議に就任。894年には遣唐大使に任命されますが、当時衰えていた唐から学ぶ事はないと考えた道真は遣唐使の廃止を訴え、道真を重く用いていた宇多天皇もこれを受け入れました。その後の道真は宇多天皇、そして醍醐天皇の時代で重用されますが、中級貴族の道真の昇進が面白くない有力貴族や、道真が唱える急進的な改革を支持しない保守的な面々の反発も少なからず存在しました。

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そして901年、道真は醍醐天皇の廃立を企てたとして太宰府へ左遷される事になります。道真左遷の理由はこれ以外に、ライバルでもあった藤原時平との確執説も根強くあるのですが、少なくともこの前年には両者の間で確執は無かった事から、左遷の理由は判然としていないのが現状です。その2年後の903年、道真は都へ戻る事なく太宰府の地で亡くなりました。

菅原道真の家紋が梅紋だと言われる理由とは?


菅原道真の家紋は、こちらの梅紋だと言われています。

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もっとも、道真がこの家紋を使っていたかは定かではありません。そもそも家紋というものの源流は、平安時代末期の公家が所持していた牛車に彫られていた独自の印だとされており、このため平安中期に生きた道真が梅紋を用いたとは考えられないのです。

ではなぜ、「菅原道真の家紋=梅紋」という事になったのでしょうか。

実は、道真は梅の花を好んでいたと言われています。
太宰府に左遷される際も、以下の和歌を詠んでいます。

東風(こち)吹かば 匂(にほ)ひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな

歌の意味はこちら。

春になって東風が吹いたなら、その風に託して配所の大宰府へ香りを送ってくれ、梅の花よ。
主人のこの私がいないからといって、咲く春を忘れるな。


この辺りから、道真と梅が結びつけられるようになり、道真の子孫を称する家の多くが、梅をモチーフにした家紋を使用するようになりました。この家紋を使用した人物としては、加賀100万石で知られる戦国武将・前田利家や、江戸時代に数々の発明をした事で知られる平賀源内などが挙げられます。また、道真を祭神として祀る天満宮も、梅を神紋として使用しています。

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百人一首で菅原道真が詠んだ和歌とその意味を解説


菅原道真の和歌の代表作と言えば、上記で解説した「東風吹かば…」の歌が有名です。これ以外にも、道真は「菅家」という名前で百人一首に選ばれている事でも知られています。

その和歌がこちら。

このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山 紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに

歌の意味は以下の感じです。

今度の旅は急のことで、神様へ捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。そこで手向山の美しい紅葉を手向けます(捧げます)ので、神様、御心のままにお受け取り下さい

この歌は898年、宇多上皇が交野で鷹狩をした後に吉野の宮滝や河内の竜田山、摂津の住吉などを巡行した際、これに付き従っていた道真が奈良の手向山で詠んだ歌だと言われています。この和歌で描かれている「手向山」は現在の奈良県奈良市にあり、その麓には手向山八幡宮が位置しています。明治時代に廃仏毀釈が行われる前は東大寺に属していたため、1180年に東大寺が平重衡の焼き討ちにあった際には共に焼け落ちた事もありました。

※参照:聖武天皇が大仏を作った理由は?大きさや行基がした事は?

この記事のまとめ


このページでは菅原道真がどんな人だったのかを、家紋とされる梅紋や百人一首で詠んだ和歌の意味を交えながらご紹介しました。

さほど身分的に高くない家に生まれながら、学問によって出世し、国政の中枢に立ち、改革を推進していった菅原道真。しかし、政敵である藤原時平の讒言、あるいは宇多天皇と醍醐天皇の政争に巻き込まれた事が原因で、都から遠い九州の地に左遷され、この地で最後を迎えることになりました。

道真死後の菅原氏は、長男の高視の系統が公家や地下家、あるいは武家として存続しています。こうした公家がその後どうなったのかを以下の記事で紹介しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の違いとは?五爵を簡単に解説