戦国時代の中で「最強の軍師」と言えば、あなたはどの戦国武将が頭に浮かびますか?一般的には真田幸村や黒田官兵衛、山本勘助といった人物が浮かぶかもしれませんね。

ここでは、長年主君の側にあって、その勢力拡大に貢献したという基準で、戦国武将の中で最強の軍師だと思う武将を、独断と偏見で5名選んでみました。
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まるで豊臣政権の軍師!?小早川隆景


戦国武将の中で最強の軍師と言えば、僕はこの小早川隆景を挙げたいと思います。

江戸時代の岩国藩(吉川元春の三男、広家が初代藩主)で書かれた『陰徳太平記』という資料によると、隆景は危ない戦いをせず、策略を持って敵を倒す事に長けていたと言われています。

また本能寺の変の後、豊臣秀吉の力が強くなると隆景は秀吉に積極的に協力し、最終的には主君である輝元に112万石の所領を安堵させる事に成功。また隆景自らも伊予や筑前に所領を与えられ信頼されている事から、隆景は輝元だけではなく、まるで豊臣政権の軍師だったのかとすら思えてしまう程です。

しかし隆景はこれに奢る事はなく、輝元を支え、秀吉が甥の小早川秀秋を毛利本家の養子に出そうとするのを防ぎ、小早川家を継がせました。毛利家において「軍師」隆景がどれだけ重要な軍師だったかは、関ヶ原の戦いの後、毛利家の所領が全盛期の3分の1以下になっている事からも分かると思います。

独眼竜・伊達政宗の兄貴分、片倉景綱


二人目に紹介する「戦国武将最強の軍師」は、伊達政宗の右腕こと片倉景綱です。

片倉景綱は政宗より10歳年上。伊達家の重臣として、またおそらく政宗の兄貴分的な存在として、伊達家の発展に尽くしました。景綱は伊達家の外交を一手に引き受けており、また豊臣秀吉の小田原征伐時には、政宗に対して参陣するように促しています。もし景綱が居なければ、秀吉の奥州仕置によって政宗の所領はより多く減封、場合によっては場合改易されていたかもしれません。

合戦においても、景綱は政宗を支えています。人取橋の戦いや摺上原の戦い、関ヶ原の戦いなど政宗の生涯に大きく関わってくる戦いの裏には、景綱の存在がありました。政宗もこの功績に報い現在の宮城県白石市にある白石城を与えています。この白石城は、江戸時代に出された「一国一城令」の対象外になっているのですが、その裏には、伊達家の当主が景綱の功績を幕府にきちんと伝えていた故なのかもしれません。

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軍師の存在感が強すぎると…?太原雪斎


3番目に紹介するの「戦国武将最強の軍師」は太原雪斎
今川義元の軍師として有名な人物です。

太原雪斎はもともと、今川家の5男で僧侶となっていた義元の教育係をしていました。雪斎は1496年生まれで義元は1519年生まれなので、23年程の年の差があったという事になります。

しかし父や兄の相次ぐ死によって、義元が家督を継ぐ可能性が出てきました。この時、義元の兄の玄広恵探も家督相続に名乗りを挙げるのですが、雪斎は義元を助け、最終的に玄広恵探を自刃へ追い込んだとされています。父や兄を速くに亡くした義元にとって、雪斎はその代わりとなる存在だった事は想像に難くありません。

その後も、雪斎は義元を軍事、政治の両面で支え続けます。甲斐の武田家との和睦や北条家、織田家との戦いは勿論、1554年の甲相駿三国同盟の樹立にも貢献。また前年に出された今川家の分国法、今川仮名目録の制定にも雪斎は関わっていました。

雪斎は1555年に死去。そしてその5年後に義元も桶狭間の戦いで戦死します。これについて、幼少期に雪斎に学問を教えてもらっていたとされる徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて他の家臣の存在感が薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている程です。

謀略家タイプではなく遠ざけただけ!?鍋島直茂


4番目に紹介する「戦国武将最強の軍師」は龍造寺氏の家臣、鍋島直茂です。

鍋島直茂と言えば、最終的に龍造寺氏の実験を掌握して佐賀藩の藩祖となっている事から、松永久秀や宇喜多直家のような謀略家タイプだと思われる方もいるかもしれません。ですが龍造寺隆信が島津家久に敗れる前は、その忠実な家臣として隆信の勢力拡大に力を尽くしてきた武将として知られています。

少弐家の滅亡や今山の戦いでの大友家に対する勝利、有馬家や大村家を服属させたのは鍋島直茂あっての事ですし、沖田畷の戦いで隆信が死んだと聞いて自害しようとしたエピソードを見ると、直茂は腹黒い謀略家だったとは全く思えません。

むしろ直茂は、龍造寺隆信、そして政家に遠ざけられた事でも知られています。1581年以降、鍋島直茂は筑後の柳側城に入り、同地の内政を担当しているのですが、これは肥前を本領とする隆信が直茂を疎ましく思い、彼を遠ざけた為に起こったと言われています。

また朝鮮出兵において、直茂は隆信の長男、龍造寺政家を毒殺しようと疑惑を突き付けられ、これを否定する起請文を書いているほど。隆信、政家親子に直茂を使いこなすに器量があれば、幕末の佐賀にあったのは鍋島藩ではなく龍造寺藩だったかもしれませんね。

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易学や陰陽道に精通していた謎の軍師、沼田祐光


最後にご紹介する「戦国武将最強の軍師」は津軽為信の家臣、沼田祐光です。

「え?誰?」と思われるかもしれませんね。沼田祐光の前半生は分かっておらず、どういう経緯で津軽為信に仕えたのかもわかっていません。そもそも主君にあたる為信自身の経歴も不明な点も多いので…。ただ少なくとも、為信がその名を上げる契機になった1571年の石川城攻めの時期には、少なくとも沼田祐光は為信に仕えていたと言われています。

沼田祐光は天文学や易学、陰陽道に精通しており、為信が弘前城を築城する際には土地の吉凶を占ったという逸話が残されています。また一説によると、沼田祐光は中央政界とのパイプを持っていたとされ、これが為信が秀吉の小田原攻めの際、本領安堵を許された事に繋がっていくという見方も出来ます。

上の4人と比べると謎が多い人物ですが、同じく前半生の経歴がハッキリしない為信が津軽藩の初代藩主へと成る過程で、沼田祐光の存在は大きかったのではないでしょうか。

この記事のまとめ


戦国武将の中で最強の軍師」というテーマで、小早川隆景、片倉景綱、太原雪斎、鍋島直茂、そして沼田祐光の5名をご紹介しました。

ちなみにこの記事は、山本勘助のような経歴がハッキリしていない人物や真田幸村や黒田官兵衛のような部隊の指揮官としての側面が強い人物、石田三成のような行政官としての側面が強い人物、真田昌幸のような独立大名としての側面が強い人物はあえて外しています。

他にも、本多正信や直江兼続を入れようか迷いましたね。もっとも人によって「軍師」の基準は色々あると思います。この記事を見て、あなたなりの「戦国武将の中で最強の軍師」を見つけてみてはいかがでしょうか。

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