あなたは「新撰組(しんせんぐみ)」という名前、あるいは近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)という人について聞いた事がありますか?

江戸時代の終わりごろ(幕末)に活躍したグループです。

今回はこの新撰組がどのようなグループだったのかを、小学生の方向けに簡単にご紹介します。また、新撰組の年表や最強の隊士は誰だったのかについても見ていきましょう!
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新撰組とは?小学生向けに簡単に解説!

まずは新撰組とは何だったのかを、小学生の方向けに簡単にご紹介します。

新撰組というのは、江戸時代の終わりごろに活動した、幕府の警察のような仕事をした組織の名前です。幕府を倒そうとする人たちや藩を、徹底的に取り締まったことで有名です。

新撰組ができたきっかけは、京都にいる江戸幕府の将軍を守ってくれる人が欲しいという理由でした。当時、幕府を倒そうとする人達がどんどん京都に集まっていたので、将軍を守る必要があったのです。このため、剣術などが上手な強い人を募集した結果、農民出身で後に新撰組のトップになる近藤勇や、新撰組のナンバー2になる土方歳三という人が応募しました。これが、新撰組のもとになった「壬生浪士組」が誕生したキッカケでした。

そして、1863年におこった「八月十八日の政変」での働きが認められて、名前を「壬生浪士組」から「新撰組」へ変更する事になりました。また翌年の「池田屋事件」では幕府を倒そうとする長州藩の多くの志士を討ち取り、みんなの人気を集めていきます。一時期は200人以上が所属する大グループになった新撰組ですが、隊士たちの間で争いが起こったり、あまりにもルールが厳しい面もあり、殺されたり切腹する隊士も少なくありませんでした。

農民出身の隊士が多かった新撰組は1867年、ついに幕府の家臣になる事に成功します。

しかし当時の幕府は、味方だった薩摩藩が長州藩と手を結んで力が弱くなっていて、大政奉還によって朝廷に政治を行う権利を返します。しかし、薩摩藩や長州藩といった新政府は幕府を徹底的に潰すために「鳥羽伏見の戦い」をしかけます。そのため新撰組も新政府と戦う事になるのですが、この時近藤勇や土方歳三といったトップの隊士が亡くなった為、解散することになりました。

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小学生にもわかる!新撰組のわかりやすい年表

ここでは新選組が何年に何をしたのかを見ていきましょう。

小学生の方にもわかりやすいように、年表を使って解説していきます。
西暦できごと
1834年10月新撰組の局長、近藤勇が武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)で誕生します。
1835年5月新撰組の副長、土方歳三が武蔵国多摩郡で生まれます。
1848年近藤勇が「試衛館(しえいかん)」という剣術道場に入門します。
ここで土方歳三や沖田総司といった隊士と出会いました。
1863年将軍の警護の募集に応募するため、「浪士組」という組織が作られます。
近藤勇や土方歳三は江戸を出発し、23日に京都に到着します。
その後会津藩の所属となり「壬生浪士組」と名乗るようになります。
1863年8月18日会津藩と薩摩藩が長州藩を京都から追放した「八月十八日の政変」を手伝います。
この功績によって、「新撰組」の名前をもらう事になりました。
1863年9月18日近藤勇と対立していた芹沢鴨(せりざわかも)を、会津藩の命令によって暗殺します。
1864年6月5日池田屋事件」が起こります。
御所焼き討ちを計画していた攘夷派浪士を追い詰めます。
9名を討ち取り4名を逮捕しました。
1864年8月京都での勢力を奪回しようとした長州藩が「禁門の変」を起こします。
その鎮圧に、幕府軍と共に参加しました。
1867年6月それまでの活動が認められ、江戸幕府の家臣に正式になる事が出来ました。
1868年1月鳥羽伏見の戦いに幕府軍として新政府軍と戦いますが、敗北しました。
1868年4月25日新政府につかまった局長、近藤勇が処刑されました。
1869年5月18日新政府軍と戦っていた土方歳三が、函館戦争で戦死します。
まもなく旧幕府軍は降伏し戊辰戦争が終結し、新撰組は解散します。
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明治時代になり、新選組とたたかっていた薩摩や長州の人たちが政治のトップになったこと等が原因で、人々の新選組へのイメージは悪い状態でした。しかし大正時代の終わりごろには新選組をテーマにした小説が登場し、新選組に対するイメージは良くなります。

戦後になると、新選組をテーマにした映画やドラマが登場し、新選組の人気はさらに高まります。代表的なものとして、土方歳三を主役にした司馬遼太郎の小説「『燃えよ剣』(もえよけん)や、2004年に放送された大河ドラマ『新選組!』が、よく知られています。

※2019年2月11日追記
本日、土方歳三を主人公にした司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」が映画化される事が発表されました。V6の岡田准一さんが土方歳三を、鈴木亮平さんが近藤勇を、伊藤英明さんが芹沢鴨を演じられるそうです。五稜郭の戦いから150年後、役者さん達がどのような新選組を描く事になるのか、今から楽しみですね。

※2021年5月10日追記
映画『燃えよ剣』ですが、公開日が今年の10月15日に決定しました!本来であれば昨年5月に公開予定でしたが、コロナのため公開が延期となっていました。やっと観れる!と思われてる方も少なくないと思います。僕自身も『燃えよ剣』はしっかり見たことがないので、この機会に映画を見てみたいと思います!


新撰組で最強の隊士は誰だったのか?

ところで、新撰組で最強の隊士って誰だったのでしょうか?

元新撰組隊士で、明治以降も生き残った阿部十郎(あべ じゅうろう)という人物によると、以下の隊士がベスト3だったと言われています。

永倉新八(ながくらしんぱち、2番隊組長)
沖田総司(おきたそうじ、1番隊組長)
斎藤一(さいとうはじめ、3番隊組長)

このランキングを見ると、「なんで2番隊の隊長が1番隊の隊長より上なの?」と思うかもしれませんね。実際、1番隊の隊長である沖田総司の強さは当時からとても有名で、永倉新八でさえも「他の隊士を子供扱いしていた」と沖田の強さについて証言しています。

その一方で、沖田総司は体が弱く、新撰組の名前が知られるようになった池田屋事件においても戦闘から離れてしまったという説もあり、1868年にわずか27歳で亡くなってしまいます。一方の永倉新八は明治時代も生き抜き、1915年に77歳で亡くなっています。また池田屋事件においても永倉新八は刀がボロボロになるまで戦い続けたと言われており、実際にどれだけ戦ったのかが、阿部十郎の評価を分けたのかもしれませんね。

また、3番目の斎藤一も永倉新八と同じく、1915年に亡くなった明治時代を生き抜いた隊士です。永倉新八は沖田、斎藤の事を「沖田総司は猛者の剣、斎藤一の剣は無敵の剣」と評価した事でも知られています。

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この記事のまとめ

このページでは新撰組を小学生の方向けに簡単に解説すると共に、年表や最強の隊士が誰だったのかも考えてみました。

新撰組として幕府に仕えることで、本当の武士になりたかった近藤勇や土方歳三。百姓生まれの彼らは「武士」に憧れがありました。幕末の幕府を倒そうとする「武士たち」は、彼らからすれば「悪い武士」で許せない人たちです。だからこそ、敵を徹底的にやっつけ、新撰組の隊士が「武士らしくない」行動をすると殺しもしました。

つまり新撰組は、決してカッコイイだけの存在ではなかったのです。それでも幕府のために命を捧げきった一生は、どこか心を打つところもあるのではないでしょうか。