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戦国時代、その強さを讃えられる勢力はたくさんありました。
その中でも、九州南部を治めていたのが島津家の強さは非常に有名です。

特に1570年代以降の島津家は、四人の兄弟がそれぞれの才能を用いて勢力を拡大していました。

このページでは、その中でも四男にあたる島津家久の強さにスポットを当てると共に、その死因についても検証してみました。
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島津家久がどんな人物だったのかをわかりやすく解説!


まずは島津家久がどんな人物だったのかを、簡単にご紹介します。

島津家久は1547年に、当時の島津家当主であった島津貴久の四男として生まれます。1533年に生まれた長兄の義久、35年の義弘、37年の歳久と言った兄達とはかなり年が離れていたんですよね。ちなみにこの3人は島津貴久と正室との間の子供なのに対し、家久は側室の子供でした。

そんな家久の初陣は15歳の肝付家との戦いです。この時に敵将を討ち取るなど、すでにその強さの片鱗を見せ始めました。また若い頃の家久は、伊勢神宮への参拝を目的に上洛しているのですが、その過程で織田信長の様子を見たり、明智光秀の接待を受けるなどしており、その様子を「家久君上京日記」という書物にまとめています。

九州に戻ると、当時島津家とともに九州の覇権を争っていた龍造寺隆信との戦いに家久は参加しました。1584年の沖田畷の戦いでは、龍造寺氏の軍勢は島津家の軍勢の約4倍という大軍でしたが、これに対して家久は「釣り野伏せ」という戦法を用いて隆信を打ち取る大手柄を挙げます。これによって島津家の九州における強さは盤石なものになる一方で、家久自身も日向国(今の宮城県)にあった佐土原城を与えられています。

しかし、次は九州平定を目論む豊臣軍が島津家を襲う戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)が勃発します。この戦いにも家久は参加し、仙石秀久や長宗我部元親の軍から勝利を収めました。余談ですが、家久がこの時、長宗我部元親の嫡男、信親を討ち取った事によって、長宗我部家は衰退へと突き進む事になります。

※参照:長宗我部元親の人物像やその妻について。子孫は続いてる?

島津家久の強さについて。活用した「釣り野伏」とは?


沖田畷の戦いでは龍造寺隆信を、戸次川の戦いでは長宗我部元親を撃破するなど、島津家久の戦における強さはかなりのものだったと思われます。
家久の強さについてもう少し詳しく見て行きましょう。

家久の祖父で、戦国期に島津家が発展する基盤を築いた島津忠良は「軍法戦術に妙を得たり」と家久について述べ、兵法の面において秀でていると評価しています。また、戦国時代に日本を訪れた宣教師、ルイス・フロイスは家久について「優秀な武将」「老練な主将」という言葉を用い、その強さを讃えました。こうした家久の強さは、龍造寺隆信の大軍を破った沖田畷の戦いや、豊臣軍を破った戸次川の戦いにおいて大いに功を奏していると言えます。

ではなぜ、島津家久はこうした大軍を破るほどの強さを誇っていたのでしょうか。

そのひとつに、彼が好んで使った「釣り野伏せ」という戦法が関係しているのではないかと私は思います。この戦法は、あらかじめ兵を真ん中、右、左の3つに分けておいて、真ん中の兵で敵を誘い出し、相手が攻めてきたら左右の兵も合わせた3方面から敵を攻撃する、家久の兄の島津義久が考えた戦法です。釣り野伏を上手く使いこなすには兵の熟練度、指揮官の技術、そして双方の信頼関係が不可欠だと言われているのですが、家久はこの戦法を大いに活用し、島津家を九州の覇者へと導いてきました。

また、家久は側室の子供だった事もあって、兄の歳久にバカにされた事があったと言われています。これに対して義久は「学問をして自分を磨けば身分なんて関係ない」と言った事から家久は発奮し、空いた時間を全て武芸と学問に費やしたと言われています。こうした日々の努力が、釣り野伏を上手く活用した家久の強さに繋がっているとも言えそうですね。

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島津家久の急死の理由は?その死因に迫る!


そんな家久ですが、1587年に居城の佐土原城で急死します。その死因については明らかにされておらず、現在も様々な憶測を呼んでいます。

戸次川の戦いの後、島津家は秀吉の弟、豊臣秀長が率いる豊臣軍と日向国で戦い大敗を喫します。これに対して家久は佐土原城に退却する一方で、独断で秀長と和睦を結ぶのですが、その直後に家久は急死してしまうのです。
このため、死の直前に島津家久と和睦にあたった豊臣秀長による毒殺ではないかという噂もあり、島津国史という書物には家久が毒を盛られる描写が残っています。

しかし、和睦した秀長の側近が家久の兄、島津義弘に宛てた当時の書状には家久が病気であるということが記されている事、そして豊臣方に家久を毒殺する理由がない事から、家久の死因はあくまで病気によるものである事が通説となっています。

なお、家久が所有していた佐土原城は、その嫡男である島津豊久に与えられ、豊久が関ヶ原の戦いで戦死した後は、一族の島津以久(もちひさ)が初代佐土原藩主となり、幕末まで続いていく事となります。

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今回のまとめ


島津家久がどんな人物だったのかを、その強さや死因を含めご紹介しました。

島津家が九州の覇者になる上で、島津家久の存在は欠かせないものとなっています。家久の強さは、釣り野伏という戦法を活用した指揮官としてのものであり、その原点には側室の子である事をバネとした努力があったのでしょう。

その急死は、死因についても様々な憶測を呼びました。もしも家久が長生きしていたら、関ヶ原の戦いにおける島津家の戦い方もまた違ったものになっていたかもしれませんね。

なお、以下の記事では戦国時代から幕末にかけての島津家の家系図を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:島津家の家系図を簡単に解説。薩摩藩の歴代藩主は?